古代インドで僧侶になるためには健康でなければいけなかったとか。
これってついこないだまでかなり当たり前でハードルの低いことだったと思うけど、コロナ禍において仕事をするには健康でないといけないみたいな新しい当たり前になった気がする。
古代インドってどんな世界だったんだろうね。疫病とかも多かったんだろうか。
昨日は読書すると結構スイスイ入ってきたんだけど、今日はなんというかノンフィクションとか教養モノを読んでも「本に書いてることホントかな?」と思うと読み進めるのが止まる。
街中の育ちで、その割に昆虫とかに興味を持っていたけど、親に連れて行ってもらったさあファリパーク以外で動物ってテレビで見るのがほとんどだった。そして子供の時に買ってもらった本は昆虫と動物の図鑑。なんとかして家で動物を飼おうとしたんだよな。
けどいつからか動物よりコンピュータに夢中になった。たぶん部屋が変わってからだと分析して、昔に使っていた子供部屋から昆虫と動物の図鑑を今の部屋の本棚に置くところから子供の頃の好奇心を思い出そうとし始めたんだ。本当にいつから俺はどんな風に変わっていったんだろう。覚えていて思い出せることもあるけど42年間を全部つないで思い出すことは出来ない。
コンピュータと数学や物理は高相性だけど、生物を勉強し直すとなると実験対象を何にするかという問題が出てくる。とりま医学をかじって自分は健康になってきたんじゃないかと。
かといって獣医さんとかお医者さんになりたいかというと違う気はする。システムエンジニアとしてのキャリアをもっと積むという道は何か違う気がして、いままるで2回目の20歳であるかのように人生の選択について悩んでいる。親父の跡を継ぐ?何を?親父は文具屋だがクルマが趣味で、最近はバイクに凝っている。その前はラジコンだった。
俺はクルマに滅多に乗らないし運転中に病気が出たら危ないのでドクターストップがかかっている。けど、街の人が親父に寄せている期待というか、文具屋としてではなく機械に強いという意味で頼られている部分があって、それに対して俺のソフトウェアの知識は役に立て方が分からないというか「パソコンの使い方くらい誰でも分かる」とはねつけられる部分もある。
そのへんが悩みなんだろうな。会社とか工場に勤めて何か作ってお給料をもらっても、周囲の人に直接的に役立つかというと、まだ接点は少ない。
以前は仕事に励むことで社会が全部良くなると考えていたんだ。それはソフトウェアの発達が社会全体を豊かにすると考えていたんだけど、実際問題としてソフトもハードも良くなっても高くて難しくてついていけない人が増えてお金持ちでコンピュータに大金を貢いで命令させれば何でも叶うというような寸法の人と安い端末をどうにか手にしてお金持ちに秘匿された情報でなくワールドワイドウェブに流布された眉唾ものの情報の洪水を前にして何をしたら良いのかも分からなくなる人に分断されてしまった。
そして俺本人もまた何をしたら良いのか良く分からなくなっているのだ。システムエンジニアの職は業界の命令系統があって、何かに付き従わないと俺の独断では物事が進まない。周囲の人間がどんな思惑を持っていて敵か味方かも分からないときもある。
そんなとき、案外と役に立ったのは聖書の言葉である。仏教で無になるより「汝の隣人を愛せよ」で子供時代に自分を大切に育ててくれた父母を思うことで、いつからか不仲になった家族関係の中心人物が自分であると思うことで、和を取り持つことがひとまずの目標となっている。そうすると、次に見えてきたのが近所仲になる。
うちの近所は商店街で、付き合うというと店でモノを買うのが基本となるため損得勘定が働く者同士で必然的に意地が悪く仲も悪いと俺は思っている。だが、住宅地ならゴミ捨て場で偶然会う以外に接点なども無いかもだから、商工会があって情報交換もする分だけ損得の仲違いはごく普通の人間関係であって、決して特別に仲の悪い地域であるとするのも間違いかも知れない。
特に問題がない時に何かと不安になってしまうのが俺の性格の問題なのかも知れないな。まあ鬱病などの問題はあるが、腰痛も治って体は比較的に元気。当面は食べるものに困ることはなさそう。ただ、今の暮らしがずっと続くだけで人生このままで将来的に後悔しないかと思うと、もうちょっと野心的に何かに打ち込むほうがテレビを見てネットしてダラダラするよりは良いんじゃないかとも思う。
これは20代から働きだして、いちばんの願いが大金を掴んで自由な時間を得たいと願ったのと完全に背中合わせの考え方だ。少なくとも暇を確保するくらいのところまでは来た。ただ、その時間で出来ることそのお金で出来ることでは大きすぎる夢のスケールに届かない感じはする。どうしたものか。