音波VS証書

 まあ、ブログで書く以上は文字なので分かりづらい話だとは思うが。

 世の中、とりわけ関西圏は「頓智(とんち)」で多くの物事が回っている。頓智頓智で法体系があり音を基調としていて「ああいった、こういった」「そうはいってない」「おれはこういっただけなのにおまえがかってにそうおもった」で回っている。

 つまり同音異義語とかとりわけ国語の主語省略を基本とした簡単な言葉のやり取りで出来ていて、文語とか英語での説明は困難な部分もあるし、反対にやさしい頓智はダジャレのようにしか思われず「そんな簡単な間違い起こるわけがない」と文章で読むと思われがちなのだが、それでもまだまだ世の中は頓智頓智のままで根付いている。

 例えば、俺は奈良学園高校卒業後2年バイトをして専門学校で資格を取っている。しかしまあ、現役でいちど大学には落ちている。それを姉が子供に「おちた」と教える。「えー、おちたんや」とまあ子供は素直なものである。

 ことあるごとに「おちた」とか「おちたくせに」と何を言ってもきかなくなり、とうとう最後には俺がげんこつで殴ってしまった。「なぐった!」それで義理の兄さんとすこぶる仲が悪くなってしまって、それまで一緒にしていた食事なども全部別となった。姉としては親父の土地を借りて仮住まいなのだが、立派な家なので親族関係を断ち切ったら、義理の兄さんが立派な家を建てて皆を養っているように見えるといいう狙いだろう。

 その「おちた」をそのままに別居している母親は俺が専門学校を出て企業内定を取った時に近所中に「だいがくいってんねん」と触れ回ったらしい。皆、聞いた話と違うと不思議がったり怒ったりするのだが、俺の専門学校の卒業証書と国家試験の合格証書を持って、書面ベースでものごとを立証出来るとその時には思っていた。

 しかし、母親の田舎は滋賀の農家で、俺が受験生の時にも頓智比べて「だいがくでてかみきれいちまいでなんかえらいんけ!」というような感じであったから、そんな証書はケツ拭き紙にもならない、何なら万札でも紙切れであるというような風潮だ。

 どうしてもすれ違うのは、家に住んでいるというのも戸籍があって役所の恩恵を受けているから、警察なりが動く用意をして家宅侵入などが防がれているから安心した暮らしがあるのであって、それは紙切れの所業では無いのかも知れないけど、会社というのも役所に届け出た紙切れが基本だし、給料もケツ拭き紙にもならない1万円札の束を封筒に入れるか銀行振り込みが普通である。

 銀行も紙切れの書状でお金が動いたことになるし、世の中は頓智で出来ていると先に書いたが、ソーシャルの意味の社会ではなく日本の会社組織は書面で出来ている部分も大きいのである。もちろん、それでも頓智のような部分もあり、特に不動産と会社の関係は都会に大きなビルがあって大企業の看板が出ているが中は貸しテナントでそこに会社は無く、テナントを借りて中小企業が運営されていると、外から見たら大企業の看板が付いたビルに通勤するから会社勤務に見えるだけで、実は仕事を全部コンピュータに任せて中で少年マガジンのような漫画を読んでいるだけみたいな事例もある。

 いつからか、職業プログラマシステムエンジニアということで職人仕事というか黙って働いてモノを見せろという文化に馴染んでしまったが、これでもこのブログを毎日書いてネットを使う人に文字を文言を見せているつもりではある。

 ただ、仕組みの分からないものからすると、この文字を打ち込んでいる主体としての俺は読者が想像できるかという話で、そうすると人が見える距離感で誰かがプリンターで出して紙として持った方がそう見えるという風に持っていく人がいる。姉だ。

 そうすると、姉もとんちくらべから紙の物証に行きついたわけで、証書を持っている俺の勝ちになるのではないかなと思うが、俺の家に誰も近寄らなくなり、部屋に証書が置いてあっても誰も来ないものは見ないし、近所には噂が蔓延して音波ベースで街は動き続けているのだ。


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