ゲームの究極の論理は勝率51%で100回勝ち越すこと

 ゲームをしない人ほど究極を語る(といって敢えてタイトルに「究極」を付けた)

 将棋は突き詰めるとどうなるか、オセロとはどんなゲームか、格闘ゲームは何が面白いか、勝負の「決め手」は何か、などなど。ゲームをたくさん遊んで来たとして語りたいのだが、若干45歳。まだまだ読者の方に筆者より年配の大先輩もおられるかとは思う。

 ゲームの攻略法を知りたいと思うのは初心者である。将棋ももしかしたら究極の手はとっくの昔に見つかって、ただそれが巧妙に隠匿されているだけなのかもしれない。駒得で言うと横歩取りの先手が先に歩得になるが「行儀の悪い手」として封じられた。

 ゲームは近代社会では豊かになって暇をした富裕層の暇つぶしで、それで富裕層の貴族同士で知恵比べとして威信ががかかっており、簡単には負けられないので勝負に慎重になり、事前情報が求められ、そして万全の態勢で罠にはめても勝とうとする。

 しかし、そこまででもない中間所得層の暇つぶしとして見ると、最初のうちは親をはじめとする年長者に負けてもらってルールを覚え、小学校くらいで勝っても負けても他愛のない遊びとして浸透しており、そしてその勝負は混沌そのものである場合が多い。

 混沌の中に秩序を見出し、必勝法があったとしても、それでも暇が優ると人は何らかの遊びをする。その意味では麻雀などの大衆賭博のほうに人気があり、そしてそれが中間所得層であるがゆえに、金銭を賭けて取り合う場合にその金額に非常に敏感になるものである。

 必ず負けるなら誰も取り合わない。勝てると思うからそれをするのである。そこでその隙間でゲームで飯を食うとまでは言わず、日銭を稼ぐコツは相手にもある程度勝たせてほんの少し1日の食費程度の勝ちを収めることになるのだろう。

 俺は仕事で高給を取って荒れるように高い博打を打ったが、やがてコンピュータと遊んで研究するようになり、将棋や麻雀のプログラムを自分で書いて、販売することを試みた。980円の値を付けたは何万本も売れれば何千万になるだろうという甘い目論見だった。それまでの麻雀ゲームの相場は1本2000円と決まっていたので、安売りの価格破壊で出し抜こうとしたのだ。

 だが、それに対する応手は任天堂の麻雀ゲームが月額100円という価格設定だった。それでも1年遊ぶなら俺のゲームのほうが安いのだが、まとめて980円よりは月額100円の方が安く見えるのも理解できる。ただ支払いの手続きなどの面で、自分の持っている販路では定価売りしか開拓できず、下限も500円と決まっていた。

 麻雀に強くなりたいと思って読んだ本の中に桜井章一の「運に強くなる」があるわけだが、そこでは「ひとり勝ちは回りまわって損をする」という章が印象に残った。まあ、麻雀ということで中華より共産思想でひとりの金持ちより皆で分け合うという考え方の延長戦ではあると思うが、麻雀のゲーム内容には触れられていない本だった。

 この本が確か780円くらいはしたはずであり、小遣いの無駄ではなかったかと思う。ただ、子供のころから「本に出し惜しみしてはいけない」という思想を持っていて、くだらなくて高い本でも「本は本」という間違いをしていたし、何なら楽器だってシンセサイザーを買う前に組み立て式のシンセサイザーの玩具が付録に付いた本を本屋で買って、その本の広告に付いているカタログで楽器を選んだくらいだ。

 話がだいぶ逸れたが、ゲームの究極を考えるのは物事の絶対を考えるのと同じで、何かをひと勝負で決するのかという問題に転化される。通例、ゲームで飯を食うとか勝負にカネをかけると言っても、将棋ひと勝負に10億円賭けていちど勝ったら全ておしまいなんて勝負はまだ開催されていない。

 棋士になるのしても、段位制やタイトルなど既定の中で勝負を繰り返して対局料が出てそれで暮らしているのだろう。俺の場合は19歳でゲーセンバイトをしていて、1ゲーム100円のゲーセンと50円のゲーセンを地元大和郡山と大阪日本橋で掛け持ちして、特に日本橋ではバーチャファイター3の稼働期1997年ごろ、時給は980円でその中から勤務時間が終わってから給料を返すように台にゲーム料を入れて対戦をしてそれで勝った分が店の売り上げになっていたのである。

 もちろん、その頃にも俺は究極を目指していたし、永久コンボのあるゲームでもコンボが決まれば一撃で決まるとしてもその最初の一撃をめぐって様々の駆け引きをした。

 あの頃の究極に対する探究心は無くしたわけではないが、それでもいきなり究極を論じるのではなく、まず触ってもらうこと、ルールを覚えるのも全部でなくてもいいから台に50円入れてもらうこと、そこがいちばん難しいのだ。

 中間所得層の話を出したが、貧民層は50円でも大金であって、そう簡単に50円出すことはない。富裕層が威信をかけて勝負に絶対を求めるように、貧民層もまた50円に絶対を賭けようとするのだ。

 これが合意を産むとひと晩で100万円ものカネが動くバカラ賭博のようになる。

 そういうのではなく、家でプレステで遊ぶ。パソコンで将棋や麻雀をする。これは俺もいつからか貧民の50円の絶対に共感して、電気代だけで遊べるなら絶対のないカネをかけた勝負で日銭を稼ぐくらいなんて怖いことはしたくないという考え方に変わったからだ。

 その中で得た最近の所感は、バーチャファイター1万試合というのは100連勝では客が寄らないので、あの頃の俺の延長戦を誰かが続けていたとしたら、51勝49敗で何とか50円玉を取って飯を食い続け、その勝率で十段まで上がる頃には1万試合を重ねていたということが究極というより商売も含めた現実ではないだろうかと。

 50円あれば1日分の小麦粉と卵とキャベツが買える。そういうことなんだと思う。


🄫1999-2023 id:karmen