悔いることで妄想が膨らんでいるのかも

 20代の頃に愛読していた森博嗣ミステリィで「天才真賀田四季には後悔が一切ない。もし時が戻ってもその時にそうするのが最善だと考えて行動しているのでもういちど全く同じ選択をするだろう」だったけか、そういう節があってカッコいいと思った。

 それを人生訓として、後悔先に立たずとどんどん前向きに生きていた時があり、その折に立ち話をした時に「後悔などひとつもない!」と発言するとものすごく恨めしい顔でこちらをにらみ「後悔はだれにでもひとつやふたつあるものだ!」と言った。それは店での立ち話で、その人は店主なのだが、その店はその後すぐに別の店になって二度と顔を合わすことは無くなった。小説の文だからナルシシズムを刺激して読んだら気持ちいい文章でも、誰かが口にするとめちゃくちゃ気障であるということは分かった。

 それからずっと経って、いまは40代だ。病苦の中で自分の病気は何なのか考え、お医者さんでも原因不明の精神病ということで海外の論文とかを読んで同じお薬をもらい治ると信じて生きている。お医者さんは大学から病院に来てデータを取って数年単位で担当医がかわる。もう6人目くらいだろうか。最初は病気の話。やがてマンガの話やテレビゲームの話にギターの話や復職の相談などもしたと思う。

 その間に本当に自分には後悔は無いだろうかと自問を続け、ひとつでも精神に悪影響を与えていると思ったものは全部取り除いてやろう、みたいに思ってきたこともある。その劣等感コンプレックスのようなフロイトの手法は全て試し、そして今ふと考えてみると、全部やっつけようとするあまり、どんな些細な後悔でも逃がしはしないとそれを考えるためにふとした小さな後悔が精神を全て支配するくらいに肥大化していなかったかと思う。それに付き合って人間の精神とはつまるところ後悔ではないかとも思った。

 後悔をなくすと「今」か夢と希望なのかもしれない。そういう精神が時として無邪気に人を傷つける。後悔というよりは、どんな些細なことでも恨みを買い、悔いさせてやろうと思わせるような態度を取ってしまったという悔いがあり、そう思うと真賀田四季の立ち振る舞いも著者はカッコいいと思って書いているかもだが、読む人にとってはバカなのである。

 それでも、良く売れたらしいのでシンパはいるかもしれない。ただし、多作の作家だが既に書店では影が薄い。色濃い時代があったという感じだ。そもそも小説って売れないものだからな。書店に本が売れて儲かったというプロパガンダが張られていたのだ。


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