朝食が無くコーヒーに昨日買ったクリーム(メロディアン)を入れて乳糖のみの食事としたが、さすがに朝を抜いて昼まで抜くとなると断食とか戦争とか、そういうときはそうなのだろうけど台所をガサゴソしてプルーンとカシューナッツを見つけて少し食った。プルーンひと粒とナッツ5粒。これだけで1週間分くらいの朝食になりそうだ。
机に積読してある本を少し読んで「本に救われた」という感覚を得た。文の内容にほっとしたのだ。「本に救われた」という言葉は芸人から作家になった又吉直樹先生の言葉として、もっと深い根はあるのかもだが、とりあえず俺にとってはそうだ。
特に20代がそうであったと思うが、俺は本でいじめを受けた気分になったこともある。役に立つかどうかわからない技術書を読み、別に読んだ小説の主人公のスーパーマンぶりに自身を卑屈に思う所もあり、それに身の丈に合っていない勉強もしようとした。
「いじめ」というほど不幸な境遇ではないようにも観察されるだろうが、心の内がほんとうにひどかった。今も薬があるから助かっているようなものだと思っている。
お医者さんや薬剤師さんと減薬の相談をしたこともあるが、健康になるイコール薬を飲まなくても生きて行けるではなく、人間は年を取って弱る部分が出てくるので、そこを薬で補って健康状態と等価にしてそれでみなし健康なのだということを教わった。
今の生活の始まりはいちど繭に籠る必要を感じたからだ。ほぼ引き籠もりと言っても過言ではない生活で、積読を解消したり勉強をしようとした。しかし、部屋にはテレビがあった。NHKの朝ドラも「ちむどんどん」と「カムカムエブリバディ」を全部観た。「らんまん」になると、何かしていて見逃すということが増えた気がする。
そのくせ、時事をよく覚えているかというと、スッと抜けていくような感覚がある。意識がぼんやりしているのだ。朝ドラも昼の再放送と見比べて分かることも多かった。
復職を考えることもあるが、お医者さんからはまずデイケアで生活リズムを作るところから始めて、時間拘束の短い軽作業からをすすめられる。そこにシステムエンジニアでありたいという自尊心のようなものが次の邪魔になっているとは思う。でも、役職よりもお金の大事さをもっと身に染みて感じているから復職を考えるのだ。
あとはゲームもプロゲーマーになって賞金が欲しいのではなく、腕前的に二番手のプレイヤーは皆何らか収入があって、ゲーセンで強い相手と100円玉を入れ合って張り合ったり、新しいゲーム機に買い替えて大会までの交通費を出し録画や配信などの設備投資や機材投資が出来て、そして驚くべきことにそれらはプロとしてではなく趣味なのだ。
ギターにしても危うくそういう相手に妬くところであったが、冷静になって今のままで良いと考えるようになった。多分ゲームの事も三日と経てばまたいつもの心境で出来るだろう。何にもならないけど、無いよりはあったほうが退屈しない。
戦争とか断食になると、動かないで何も考えないでおこうと思考を閉ざす方がカロリーの消費を抑えて同じ食糧で長生きできるらしい。ゲームをするにもメシと電気が余分にいるのだ。そしてゲーム機が旧型とはいえ、今はそれくらいの余力はある。
それで味わえる幸福で十分ではないかと思うことも出来るだろう。寂しさはあるが。