データサイエンスと呼ぶのが流行りらしいが

 最近ではデータサイエンスという言葉に変容しているが由来的には統計学、そのうちでも多変量解析と題された本が昔に背伸びして買ったものがブックオフされずに家にあり、今なら分かるかなともう一度読み込んでいる。

 初めて読んだ第一印象は「これはとても科学と呼べるものではない」だった。論外の考え方でおかしいと思ったのだ。それは俺の直感だった。

 しかし、俺はいちど大学に落ちてフリーターをしてから、専門学校に進んで国家試験に通り、半分は不真面目なゲーマーのまま会社員という体制派に属した。ただ、その社会ではそれまで軽視してきた学歴は重んじられる。体制派だから仕方ない。それから俺は復学を考えた。専門卒の下級公務員としてそのまま課長止まりまでも行けるか怪しい会社員生活の中で、せめて勉強しようと思ったのだ。

 ただ、それから大学の本をスパイして読もうとする俺当てに東大の先生から受験勉強をするべきである、大学の学力は高卒までの受験勉強を経て学生が得てきた学力によって維持されているものであり、大学の授業内容がそれほど良いものではないという話だ。

 しかし俺だって奈良学園という偏差値の高い高校を卒業している。高校の勉強を科目で俯瞰して、さあ何をやろうと思うと全部一回はやったよなと何をして良いか分からない感覚からの出発であった。

 それから既に多くの年月が経っており、主な内容は高校の勉強で、入学から卒業までにスケジューリングして詰め込むことが出来なかった部分を日々少しずつに押しなべてのっぺりと勉強してきた。だから小中学校の読者は高校入学を楽しみに、高卒以上の読者は昔やったことを思い出して、そこは割愛したい。

 そうして統計学に戻ると、大学受験の試験など、学生の合否を判定するのもこの統計学というのが大学側の計算方法であることが分かる。例えば、一次関数の残差平方和で示されるような予測が、俺の当初の数学力では点描された点を全て通るような高次元方程式と差分を無視しているとも言える直線とどちらが正しいのか、というようなことは結局未来になってみないと判定できないわけだが、答えの出る問題では無く、意思決定を当てずっぽうではなく科学的にしようとした時に他者説得のためには数理が必要で、そのための手法として統計学が使われて、一定の成果が出ているのだ。

 実際、学科試験の多くの問題は頭の良さを測るのに不服のある人もいて俺もそうだったが、少なくとも実社会であまり使われておらず教科書に載っている単語の多い学科試験に答えられるという事は、勉強量を測る試験としてはある程度正しいだろう。

 大体、俺の自信の根拠である奈良学園を出ているというのも奈良学園の成績偏差値が他校より高く、学科試験の得点の優劣を大学不合格で切り捨てながらそれでも専門学校に復学して国家試験に通っているという事で専門学校入学時点の学力が周囲から奈良学園卒業の偏差値60ではなくサンタックコンピュータ専門学校の最低合格偏差値47に見積もられたとして、合格率20%の情報処理技術者試験に合格して、それから中途採用でユニオンシステムに通勤することで体制派に組み込まれたわけである。

 それはある意味では諸刃の剣で学力の低いとされる者には体制派として強く出られても、組織の中で自分より上位にいるものには逆らい難い。真ん中の立ち位置を示しているものだろう。

 それが、会社から離れてみると、資格はまだ持っているが、役職は無い予備要員として奈良の城下町の市中にある一介の小売店の屋根裏の小部屋でこうしてパソコンでブログを書きながら、スーパーの弁当やマクドナルドのセットを食って過ごしているのだ。

 下級公務員として過ごすのも毎朝の通勤と業務があった。もちろんその中で出世の上限が見えているのが嫌で勉強をしていたはずが、気付けば親の自営業を継げるかどうかという小市民としての生活に変化しているのだ。だが反体制をする気はない。体制のおかしさというか、統計的な捉え方の見落としはもちろん分かっているので、反対に例外的なスキマに入って暮らしているわけだ。

 親父の経営する自営業なので親に所得があって、自分は給料をもらわず親の持ち家に住んで食事を世話してもらえば俺には所得が無いので税金がかからない。それを伝えたら、仕組みの改編とかで働かされないかという不安は無いわけではない。インフレ政策などがその手にはなる。それでも一億人の国民を要する国家の政策の基本は貿易外交と税収で、それを計算する官僚の方程式は統計学に由来することは違いない。

 対して、中高レベルの理科ではあるが、俺にもそのレベルの科学知識は全て身に付いている。科学は正しいかというと、それにも観察や測定の範囲でしかモノを言えないという網目のようなスキマはもちろんあるわけだが、それを嫌うと顕微鏡や測定機の研究に一生を捧げることとなる。コンピュータ将棋の研究で交流のあった某氏も医療用測定器の研究が趣味の将棋ではなく本業としてあって、鬱でやつれて自殺寸前であった。

 貯金はあるが収入は少なく税金のかからない範囲で、それでも将来は心配で株で増やそうかと画策したこともあるが、それも確率的にはそんなバクチで、統計的手法を取ると大企業の経常収支などを見比べて、その常識の延長が投資信託であり銀行預金という間接金融になる。投資には元本割れリスクが、預金にはインフレリスクがあるが、預金が少ないと銀行倒産リスクがあるのだ。まるで銀行業のバックオフィス業務を無償でしている気分になる。

 そうして、統計学をもういちど考えると頭から信じるには危うい部分があるが、リスクを嫌ってまず何から始めるかというと、歴史に学ぶという観点から、近代的な歴史研究の出発点が統計学のはじまりであり、そうしてデータを集計することが研究者の主な業務なのである。

 つまることろ、自衛隊とか農林水産(畜産もね)とか運送業とか主に自動車や船舶などのの製造業とかそういうのはそれはそれであって、余った市民は仕事が無くて収入が無いけど、税収をもらえる公務員からあぶれたら食費を何とかしてあとは遊んでいる。

 まあ、もう出世とかは無いかなとも思うんだけど、したい遊びを小さく見積もってこじんまりと暮らしているだけで、大きなお金のかかった夢を持ってそのために労働者として復職するという事を考えたら、しんどい目をしてから大きな夢を追う若さはもう無くて、それでいて人生がこのまま平坦に終わりゆくことには一抹の不安がある。

 こうして書をつづって人に語るには実はまだ若すぎるのではないかとも思っている。将棋に麻雀にテレビゲームが何のためにあるのかというと、退屈な時間を有意義で楽しいものにするためであろうけど、そのVR体験より実体験はもっとより良いであろうか、リスクを負わないための死んでも良いVR冒険では無いだろうか。

 まだ、もうしばらく読書を積んで勉強しようかという所で今日はここまで。

 


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