あそびたわむれもてあそぶ

 寿命って考えると不思議な言葉だなと思う。命の終わりであるのに寿(ことぶき)という祝いのような響きが使われている。日本の生死観の一端がこの言葉にあるのだろう。考えるとそういう風に俺の思考の大部分は人文や文学で形成されている。それを高校から勉強しだした数学と、専門学校で習ったプログラミング、その後に実務を通して関わって来たシステムでもってコンピュータサイエンスの切り口で世の中を見ようとしても、せいぜいがコンピュータグラフィクスのように世界を幾何学的にワイヤフレームの立像たるように眺めるだけ。それでいて自身の思考はというと文学なのだ。

 もうちょっと理系的にと思うのだが、それで理科的にあるいは自然科学的に生きるには部屋に本を積んでテレビを見たりゲームをしたりブログを書くというのは自己矛盾している感じがする。理系的な本も読むのだが、本である以上は半分は活字で、もちろん人文用語ではなく理系用語や数式が載っているケースもあるが、専門卒に独学を足した俺の学力では読むのが辛い本もある。

 それでいて、筆を執ってこうして毎日ブログを書いているのは俄かに過ぎるとも思う。専門書はそれはそれで何冊も読んだが、何十冊というほどでもなく、理解しているかどうか怪しいものは図版の易しい本を選ぶようになり、特に生物学がそうであるように語学的にどうこうというより解剖学的に形状を写真で見て学ぶという要素に、絵で見て分かる直観力も必要で、そうなると当然工学なら機械の形状を学ぶのも筋であって、それとプログラミングというのは一線を画していて、図説ではなくプログラム言語で書かれたものが何であるかというと、プログラムにも言語による特性の違いがあり、俺はC言語やBASICを好むわけだが、分類学的にはLispに系統づけられる関数プログラミングが主なのである。これは高校の時に勉強のために買った数学の学参が「基礎からの微分積分」であって関数でもって事象を解析するという立場を取るというと大げさだが、基本的にはその「ひとつ覚え」であるからだろう。

 当然理系を目指すなら化学なんかも必要だろうと勉強を始めると、例えば質量と分子量がある場合に例題的に演算でもって一者を求める形式でもって出題されるが、最も簡単な行列である二元数でもって、物質は質量と分子量を同時に持っていて、何個で何グラムかと捉えるべきであり、何個(モル)かと何グラムかを別にして総量と質量の変換を何度繰り返したところで理解には及ばないのではないかと思う。

 だが、だいたいの化学の学参とか教科書は変換の例題しか出題されていない。俺が読んだ限りではあるが。

 それで物理学だと主に軌道計算など関数の数学の色が強く、化学は演算で、生物になると視覚的になりがちであるが、総合して数学的に考えられるかというと、生物学の何処の何を数学するのか以前に自然界や特定の個体の解剖学に於いて何も総合的には把握できていないのであった。

 勉強するとなると工学、生物学、医学の三択でもって受験に臨むというプロセスをいちどは通るのであろうが、ただコンピュータの専門学校を選んでしまいその先の進路はそれはそれで広がっているのかもだが、計算機の中はあくまでメモリとプロセッサでデータとコードがあるのみだとも思う。まあデータとひと口に括っても展開すると数値、文字列、画像(写真、図形)、音声(波形、楽譜)、動画などがあり、ネットを介してカメラで撮影した動画がそのまま遠方と交換できる前時代的に言うとテレビ電話と何も変わらないシステムが民間価格で各家庭どころかポータブル、ウェアラブル端末でもって実装されているのであるが、だから何?というと今の世の中「見たまんま」になりがちで、そこに人文のなかでも純文学的な味わいでもってこうしてブログ執筆を趣味としているのが、もうどうにも世間や時代とズレすぎて手の付けようがない。

 いや手の付けようとしてはひたすらタイピングしているが、テレビでも絵面で分からないものを字幕で補佐するし、人が口を開いて話すならそこに言葉はあり、聴覚的には分からない言葉を字幕でもって補うのも普通であり、翻って俺の思想が映像や数学で出来ている部分が増えてきたとはいえ、まだまだ言語中心なのだろうなと思う。

 それでも、俺はほとんど口を利かなくなったと思う。何を話そうかと思うような相手がおらず、ひとりで部屋でこうして黙々とタイピングをして、ログを読み、本を読み、テレビを見て、時にタバコを吸い、コーヒーを飲み、三度の食事に夜には薬を飲んで眠る。いつからかコーヒーだが、以前は紅茶も好んだことを読書でもって思い出す。

 そういえば長文を書いてタイトルを付けたことを忘れていた。俺はゲームの中にも競技性があるという論者ではあるが、楽しみというのは攻略以外に遊ぶことにもある。遊ぶというと分からないものが「遊戯性」と感じにしてみると、もういちど和文にして「あそびたわむれる」あるいは弄ぶ(もてあそぶ)つまり競技として真剣になるのにも一定の快感はあれ、弱い相手をからかう余裕を持った遊戯にある楽しみは至上のものだとも思うようになった。競技でも辛勝は文字通り辛いのだ。

 将棋ソフトの大会でも、プログラムを組んで特徴をどうにか文書にして、参加がやっと、見守るのも辛い。その中で、いっそ一服の笑いがあればと少女とポンコツロボの絵を出したが、それに呼応するように「ポンコツ」とか「ノービス」と読める英字で出場した選手がおり、まだひとりずつとは面識が無いのではあるが、取り敢えずデビューとルーキーイヤーに関して存在くらいは認めてもらえたのだろうと思っている。

 そのいじりは、そんなにひどい「いじめ」というわけでも無く、笑える範囲です。

 ああ、将棋ソフトの研究者の界隈でも、例会は競技の形式を取りつつも、遊ぶ余裕が少しはあって、楽しいものだなと。それでいて、本筋の研究となると、やはり競技の辛勝が文字通り辛いのと同様に、研究も始める前の想像よりは辛いこともあるわけです。


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