幼稚園くらいまで、俺は幸福に包まれていた。問題は小学校だ。色々な地域の子供が集まる中で競争にさらされ、俺の小学校生活は幸福だったかというと、学校に行きたくなく、帰ってから部屋にこもってファミコンをするのが唯一の楽しみとなった。
そんなだった俺が、地域のMTGショップで遊んでいる子供にゲームに勝つための数学を教えようと試みるのは何か自己矛盾がある。難しい勉強なんて嫌でも、カードを繰って絵柄を見て楽しんで遊びながら、自然にというか人工だが、自助的に身に付くことがあるのだろう。
だがまあ、読む人もいないが、意図的に「勝とう」と考え続ける中で、数理とか論理はメチャクチャ役に立った。
まず、勝ち負けがあって、それから公平があるのだ。公平とは勝ち負けを無くすことである。だから、公平というカードを前提として負けておいて不平を訴えるというあざとさが相手にあると俺は小学校から本当にそう思っていて腹が立って根に持っていた。
それでも周りの不平は小学校の学級委員長の選挙などで、否応にも押し付けられる格好となっていた。それと比べたら、進学した私学の中学校は自由なものだった。
ただ、その不平は中学から外に出ると、ゲーセンでのダイヤグラム議論、ハメ待ち論争、みな同じように100円玉を握りしめてゲーセンに来る、その100円の満足度に勝ち負けがあり、そして公平を訴えた。
もちろん、トレカにもある。そもそも、当たりハズレがあるルールなのだ。そしてゲーセンで客同士が公平という欺瞞でもって店が儲けるという構図はトレカにしても変わらないだろう。当たりハズレがあるようで弱いカードにも意味はあると諭される。
まあ、俺の論理では弱いカードの長所と強いカードの長所は天秤にかけると決して釣り合うものではなく、長短はあれ、費用と効果に分かれたカードの質を費用対効果として計ってみるというちょっと数学的な手法を取ってみた。
もうちょっと噛み砕いて、算数に落とし込むと、詠唱可能ターンの早い安いカードがマナのかかる高いカードが登場するまでにどんな活躍をするか、差を取ってみれば、これは費用対効果とは少し違うが、感覚は掴めるだろう。
もちろん、そう考える目的は勝つことであり、勝ち負けを公平にすることではない。
考えていくと、トレードでどんどん費用対効果の高いカードが集まった。
公平を目的とするのは、客同士の不満を無くしゲームに集中させ続け店が儲かる循環を保つことにあるのだろう。俺は店とはかなり仲が悪くなってしまった。
そうして付けてきた差が本当に顕著になった時にあらためて公平とは何か考えるのである。あるものは税制優遇を、あるものは高い教育を政策に掲げる。
勝っておいて、教室のように授業などの手ほどきをして、子供を強くする、あるものはわざと負けてあげる。子供はどちらの話を聞くだろうかな、とも考える。
そうして子供がゲームで勝つようになって、どうやってゲーム屋が子供からお金を取って生計を建てるのかな、というところは実はまだ考えていない。店から奪うことが当面の目標であったからだ。
そう考えると、この俺のデッキは勝つためのデッキであると同時に勝ち取った戦利品ではないだろうか。
トレカがゲームになるというのは、間違った前提である全てのカードに当たりハズレは無く長所と短所はどこかで釣り合うというところから探求を始めるから、勝ち過ぎたら公平に負けているカードの方にも何らかの分は無いか考えて循環するのだ。
それが普通の金持ちのお坊ちゃんのように、大量に買って強いと思うカードだけを選り好んで残りを捨ててしまったらどうだろう。捨てられるのなら、タダである。タダよりはモノなのだから何らかの価値はあるだろう。もしそこが出発点だったら。
捨てられたものをタダでもらって負け役を取るところが出発点で、ゴールが勝つことなら、より強いカードを店で買う時点で経済的には負けてしまう。
まあ、経済的に負けてみた結果としては、お金を多少払うことで快適な勝ちゲームを楽しめた。そして、その道中にはたくさんの理不尽な辛い体験があった。
皆から不平を訴えられるほど、俺は何かを持っているという自覚は無い。統計的にはもっと金持ちがいて、俺は中流か貧乏に属するのは無いかとすら思う。
ただそこで、選挙政治で金持ちに対して「我々に与えよ」と訴えるのではなく、ただゲーセンをやめ、トレカを店ではなく家で繰って、食費以外にほとんど使わない暮らしを続けているだけで、色々なことがすっかり分かって勝ち負けが見通せるようになった。
そうすると、食事以外の遊びにゲーム機やトレカがあるのは、これは持っていたもので俺の私有財産となる。だが、マルクス主義によって否定される私有財産とは、資本であって工場長とかそういう監督職の大資産を指すのであろう。音楽家が楽器を持って画家が絵筆を持つことすら、私有財産と否定してしまうのであろうか。
詐欺師の私有店舗で付けられる高額とは無関係に、俺の持っているカードはみな、高給トランプひと組分としての当てもので店でひと箱づつ買って集めたものである。
他人の物を欲しがらず、自分の手持ちのカードを何度も並べ替えて繰りなおして、時に計算もして、たどり着いた答えなのだ。公平や調和は出発点ではない、まず競争があって、差が出来て、それから不平が訴えられたのだ。俺が勝ちを目指す前から不平は訴えられていたのは歴史と時間のねじれではあるが、競争もする前から公平をお題目にすると、何を分け与えるつもりでいるのだろうか。
俺が分け与えられるものは今のところ写真と文章の電子データだけである。余ったカードなんてのは、今のところ俺には無いのである。
教えを請いに来る人もいなくなったところで、こうして独りの探究の終わりとする。