自己は社会の中で初めて実現されるという考え方

 NHK「いいね光源氏くん」を見て相当にいじられている感覚になりましたが。

 2日に姉の家に挨拶に行って家族と顔を合わせ、カニすきの準備があったのですが大勢で椅子が足りないという事で断って帰りました。ここは奈良ですが京都ではお誘いは断らなくてはならないとか、そういう判断が難しいのです。まあ多分お誘いに甘えていただいたらカニすきは腹に入って無遠慮と思われる、だからといって反対に帰ってしまうと冷たいっちゃ冷たいわけで。お年玉、贈り物、ごちそうになるならない、皆ギブアンドテイクを通り越して余っている貴族の風習の名残だと思うんですが、今時の世の中と言って良いのか、自宅世帯のやりとりでいっぱいのなか社交をどう切り盛りするか。

 その意味では自由と言ってもフリーというわけではなく、リバティという意味で人殺しや物取り以外は何をやっても良いという思想では日本の中では社交が上手く行かず孤立してしまう、孤立してしまったのが自分の今なのかなと自分なう。

 リバティ、リベラルという立場でゲームを考えるときにひとりコンピュータと遊べば良いとか、トレカなら集めて手にして眺めればよいという思想の上で他人と争って勝ち取ることを目的としてはならないてのも自由の尊重として相手のお金を博打で取るとか店に入れさせえるってことがダメな部分だと思うんですけど、自己実現という意味でEVOのステージでウメハラなどのプロ選手を相手取って勝つところをビデオに収めて放送したいみたいになってくると、もう動画を見て自分が勝っているウメハラだと思えば良いじゃないという推し活とでもいうか、一介のファンとして応援しなさいよってなる。

 その意味では俺の欲求はゲーセン行って何連勝とか、トレカをテーブルにたくさん並べてデュエルの盤面を楽しみたいてのがあったけど、コンピュータの強くなったストIIターボがあるわけだし、DSの遊戯王で詰めデュエルを遊んだりもできる。社会というものが明確に定義されたわけではないけど、対人関係で勝率が五分五分~逸脱するとそれは交易的な損得に波及するわけだし、対決の結果勝ちたいとしてそれがデキレースでも良いとなるとそれは勝負ではなく支配とか隷属とか雇用という格好になるし、もっと言うと相手も本気でというと極端ではなく戦争をしてでも本気で良いのか、ゲームの中に限ってフェアプレーで本気でとなってくると、その競技的公平性を保つ主催者とか審判は誰が務めるのかという問題にも波及していくわけで。

 そうすると、高々ゲームと言えど公平で本気に勝ちに来た人との闘争に於いて破れて自己実現が出来なかった、海外に行って勝った事があると言っても交通費や賞金を差し引きすると赤字ツアーで、それを続ける財力が無かったというかカネの方が惜しかったというのが俺の決着点だから、それから対人大会ではなくコンピュータ戦で疑似的に満足するようになったんだ。

 ただその満足はあくまで疑似的であって、自由ではあるけど社会参加としては拒絶してきたわけで、負けるとしても大会とかに参加して参加料なりを払う側となると主催者が儲かるわけで、大会主催者というと資本家のイメージあるのは場所や機材の賃料という形で準備がいるからだけど、やってることは自由ではなく社会の提供なわけで。

 「今の社会は」とか「武家社会は」とかいうと社会があるのが前提で、それはリバティとは相容れない部分がちょっとある。もちろんリバティでも先に書いたように人殺しや物取りはいけないわけだけど、そこにギブアンドテイクや礼儀作法とかが加わって、人の好き嫌いとかも感情を殺して受け入れんとする向きのあるなしだってあるよね。もちろんその反対にそれでも好き嫌いがいじめとして消化されるわけで。

 自由な人同士の自然な関りというものが果たしてあるのか、というと街では他人と干渉しないわけで、社会というものは意図的に形作ろうとして初めて形作られるもので、実際このブログだって「株式会社はてな」によって作られたソーシャルメディアではある。自分でとなるとサーバの維持費がかかるので共用だったり広告収入でサーバの維持費の負担を軽減している。

 何ならアフィで儲かってるらしいじゃないかと言われるかもだけど、回線利用料は払って毎日投稿しているから割に合わないと言いたいけど、もともと人によっては無価値とか無駄と思われることなので、手慰みがお金になるなら良いことづくめではあるけど、好きでやっていることと稼ぎの量が定額ではなく売上相関で、売り上げが人気相関だと思ったから本末転倒に趣味から仕事にしようと思ったこともあるんだけど、今はモノを書く場としてのバランス感覚は取り戻しています。

 まあ読むのは勝手のこのブログに対して反感を持った場合に連絡を取って俺と交渉するのではなく本人探していじめるとか、俺の文体を真似して悪事を働くとか、色々なやりように出くわしましたが、読まれるという事が必ずしも理解や共感を生むのではなく反対や敵対を生んだとして、議論の土俵に上がって真っ向勝負などしてもらえず、いつか狙撃されてアッサリ死ぬかもって覚悟で出来ているかというとのほほんとしています。


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