無駄な事を一緒にしようよ

仕事から帰って「もう死ぬわー」といいつつシャワーを浴びて夕食を食べたいのだが身体が弱って口から入れたものが胃ずっしりきてしんどくなる。テレビを付けるとSMAPが日大の学生と歌を歌っていた。だめんなったとき、無駄な事を一緒にして遊ぼうよ、楽しくなるよ、という歌詞だ。


昨今のテレビゲーム開発と言うのは無駄な事を一緒にする遊びの域から飛び出ている。無駄な事から始まっているが、商業的成功とその成長の延長線上に連結従業員数1000を超える巨大ゲーム会社の社員が食べて行くためにマストの最新ゲーム制作になっている現状。遊んで充分面白いのにな、と思うゲームをハードの進化を見せつけたり他者との差別化を生むために死にものぐるいで作り足している人がいる。傍目でなく同じ机でそういう景色を見て、ここはもう俺の憧れた何かとは別世界だと思うのであった。


過去には俺の憧れがはたして存在したのか、今となって知る良しは無い。つらい。今俺がプログラマーではなくゲーム雑誌記者だったらスクープの山でそれは当たり前なのだが、何も言えない。しかし中には目をキラキラさせた新米君もいて、俺はゲーム業界的には新人だがコンピュータと言う意味では中堅だかベテランだかになるので、あのキラキラを見せられるとクルものがある。


そしてグラフィック担当の人の仕事ぶりというか開発環境のへぼいっぷりには驚いた。個人制作でもペンで描いてカメラやスキャナで撮ったり、フォトショップイラストレータで書いて縮小とか、3Dモデラから云々。それが原画も無しにピクセルエディタでパレットからドットポチポチ打ってるのな。iPhoneが高精細になってゲームのピクセル数が4倍になって、ポチポチ度合いが4倍になっている現場に、これは俺は来るべき所を間違ったかと思った。京都の職人さんは侮りがたしである。


そして大好きだった昔の「とあるゲーム」をパソコンの小窓で動かして、アングラでやっていた頃から半分わかっていた事だが、プログラムのソースもあって全部分かって、いま心理的には相当参っている。白旗を振りたい。


通勤電車でDSを遊んでいる子を見ると嬉しい。3DSもスマホタブレットガラケーもカバンに入っているが、俺は電車の中でそれらを出して遊ぶことはほとんどないのだ。なんのための仕事だろう。それが見る人から見ると夢の仕事であるという立ち位置が苦しい。


もう一度書く。


昨今のテレビゲーム開発と言うのは無駄な事を一緒にする遊びの域から飛び出ている。無駄な事から始まっているが、商業的成功とその成長の延長線上に連結従業員数1000を超える巨大ゲーム会社の社員が食べて行くためにマストの最新ゲーム制作になっている現状。遊んで充分面白いのにな、と思うゲームをハードの進化を見せつけたり他者との差別化を生むために死にものぐるいで作り足している人がいる。傍目でなく同じ机でそういう景色を見て、ここはもう俺の憧れた何かとは別世界だと思うのであった。