負けてもらっていたし、勝たせてあげていた

昨日、リアルバウト餓狼伝説を1年ぶりに遊んだ。

miyazawa.hatenadiary.jp何故かというとセガサターンは和室にあって、暖房がないので普段は自室にいる。

自室というのは7人家族だった頃の名残。正確には祖父が他界して6人になってリフォームしてからになるのかな。6人それぞれに部屋がって、互いに不可侵領域だった。

今は親父とふたりで俺は元々の自室と和室と客間の3部屋を古いゲーム機やパソコン周辺機器などのガラクタ置き場としている。いっときハマっていたマジックザギャザリングのカードをダンボール3箱くらい引き取ってもらえて、着ない衣類を整理して使わないものでも値打ちのあるもので小さいものなどを箱に詰めて、無くなったり壊れたものの外箱などいらないものから捨てていくと、ゴミ屋敷から部屋と呼べる状態に近づいた。

それで春になって暖かくなると和室の座卓に置いたモニタで正座でセガサターンを遊べる。

ブログを付けておいたので去年もこうして和室で遊んだのだなと確認できた。

それよりも、もっと前。20年以上前にゲーセンで遊んでいた頃に勝っていたゲームの攻略本を書きたいとか、負けているゲームの攻略法を知りたい、または編み出したいと思っていた。

あの頃を振り返ると、攻略法と言うよりみんながてんでデタラメな動きで、それぞれ癖があって、それを互いに覚えてそれはそれで噛み合って勝負になっていた。中にはちゃんと攻略法にたどり着いていた者もいて、振り返るとあいつの動きが正しいなと思うのだけど、そういう者はだいたい「ハメ野郎」「待ち野郎」として仲間はずれにされていたような。

つまりサークルの中で馴れ合って負けてもらっていたし、勝たせてあげてもいて、勝負の末に五分になったのでなく、五分五分になるように気を使い合って、お金も入れ合いだった。

それから考えると、正しい手を取って勝ち始めてから自分も「ハメ野郎」「待ち野郎」とそう変わらない考え方も身に着けて、お金を渋るようになり、馴れ合いからはずれて家でコンピュータ相手にひとりで遊んで小銭を貯めるようになったんだな。

友達だと思っている相手には自分はこれから負けないようになって貯金するつもりでいることを伝えて、相談したけど「いつも使うの数百円だから関係ないよ」という風に返され「それでも貯めたら大きいんだよ」とは言ったものの、仲違いになって何年か経つ。そして久しぶりに話すと「なんでそんなにお金あるんですか?」と聞かれて、一見してクソ高いプレミア物のレトロゲームでも、ゲーセンで遊ぶよりは買って遊ぶ。それがプレミア物でなく捨て値の中古品であったりすることもあるから、ヤクオクやマケプレを都度見張って、欲しいと思ったもの全部ではないけど買えるものは買って家で遊ぶ。それを繰り返してこうなったんだ。

まあ、こと格闘ゲームに関してはハメ野郎待ち野郎になって、昔強かったハメ野郎待ち野郎とやるといい勝負。運も腕もあるとは思う。だけど狙い目として何が正しいかの大筋は意見が一致しているから、操作の上手さや駆け引きの成否でなく攻略法としては正しいところに落ち着いたんだと思う。

ゲーセンでゲームをする時が無くなったわけではないけど、100円だけにしている。それで勝ち抜いても1回は負けるわけだから、その負けをコンティニューで無かった事にしないで噛み締めてまた練習すると、ゲーセンに行くという行為自体が普段の生活から大会に行くみたいにあらためられて緊張感が増す。

今はゲーセンに赴くまでの「次なる1手」をまだ準備できておらず、ゲーム理論的にジャンケンの堂々巡りであるという持論を崩すほどの何かはない。それでもジャンケンだから運だからとやめてしまわず、何か突破口はないかなと考えながら遊んでいる。

植物の持つエネルギー

7年前に書いたブログ記事。

miyazawa.hatenadiary.jp

読み返すと、プロペラ飛行機で検索してきた人にエネルギー問題の提言を読ませていた。

そんな時代もあったなと思うのは俺がエネルギー問題を考えている時に大阪ガスの研究所の仕事をもらったんだけど、代替エネルギーが出来るならガスが売れなくなるという組織のあり方自体の矛盾と、ガスがよく売れて儲かっているので研究所の人はお役人状態で馴染めず、何と戦ってよいのかというか、切迫していない問題を予見してもなかなか聞き入れてもらえないもどかしさも感じていた。

この記事の末尾では太陽光発電と植樹して育った木を燃料とした火力発電の比較をすると同じになるのではないだろうかという漠然とした発想から何かを述べようとしている。

燃やすものそれ自体は長い目で見ると太陽光を光合成して吸収して出来たものだ。木が育つあいだに葉、花、実が出来て、それらを全て乾かして燃やした総量が太陽光発電と同じというのなら、そこそこ原理としては正しそうだが、どのように実験すればよいかは悩ましい。

天然ガスもその成り立ちを考えると地球が出来てから文明が発達するまで46億年かけて地球に注がれた太陽エネルギーからなる生体エネルギーの合算だから、それを採取して燃やしていく量が増えていくと46億年後までには使い切ってしまう。

そう考えるといくら使っても大丈夫という論理も正しいように思える。太陽が燃え尽きたり、地球が冷え切ったりして地球上の全生命がいつか滅ぶなら、原始生活をしてそれを待つより文明科学を発展させて地球外に人間活動を拡大させてゆくほうが将来性があるかもしれないな。

この論理を持ってすれば自然破壊だと言われても宇宙研究をするための正論足り得るよな。

いや、俺どっちかと言うと環境保護派だったんだけど、敵に塩を送って寝返って塩食うわ。

嘘松案件について嘘を見抜いても本当は分からないという話

言葉でものを考える、人と話をして情報を集めている。

そういった生活からは「あの人はああいった」「この人はこういった」しか分からない。

あるいは文字や文章で「本にこう書いてあった」「ネットで見た」しか分からない。

そういう時に使えるのが論理学で、つまり「見聞きしたことの辻褄が合うか」ということ。

これで分かるのは「辻褄が合わない時に、どちらか一方が嘘かもしれない」ということ。

うそが分かると、反対のことは本当かというと、そうでない場合もある。

ひっくり返しのうそは実は本当に近く、でたらめがタチが悪い。

 

人というのは感覚で捉えたものを考えて処理して言葉にしていく。

それが手品のようなものを見て騙されている人が素直に発した言葉なら。

そういう人為がはさみこまれない自然との対話なら、全部が本当だろうか。

自然界にも狐の嫁入りのような現象や擬態する生物に見えない細菌もある。

 

自然科学だけが正しいという論理の成り立ちは人がうそをつくからだが、ではその自然科学の無力さを昨今のコロナウィルス騒動に見てしまうかも知れない。

哲学的に考えると、俺はもとから部屋で過ごしているのでテレビがウソかもしれない。

多くの時間をネットやテレビに使っている。俺とて本当のことなど何ひとつ分からないのではないだろうか。テレビで見て、ネットで見て、本で読んで、話をして、無数のつじつまの合わないことにぶつかりながらも「あれもウソでこれもウソだ」と叫んでみても、みなは「そういう風に見えるけど」という話に落ち着いてしまう。

なんとなく感じる無力感ではあるが、それはブログというオウンドメディアの発信基地を持つ俺に対して多くネットの読み専用の人が「信じてたまるか!」と憤慨して、何とか発信しているSNSなどが敵意に見えるだけなのかも知れない。

俺を嘘松だと言う人は少なくともいくつかの記事を読み、その論理的整合性を疑っている。俺にも誤解や間違いは気づかないだけ無数にあるだろう。

神を信じようが仏を信じようが、宗教が本当はウソでも信心している人の生活が成り立っていれば大きな問題ではない。それがもっと特定しづらい社会規範や道徳観で成り立っているなら、反社会的なものが迷惑なのも分からないではない。

そういう意味では自然科学よりウソである宗教を皆が信じているという状態のほうが秩序があり、真理を説くのと秩序を説く対立の中で真理のために命を賭ける覚悟があるのか。

ただ、よく考えると説く前に自分の主義信条が真理を理解できていると言い切れるかと言うと、まだまだ迷いはたくさん残っているのだ。今日はそれに気付いた日。


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