大晦日

 さて今年も大晦日となりました。コロナ禍の五輪など行事全てテレビで引きこもり生活。ほっかほか亭とほっともっと、吉野家マクドナルド、カップラーメン、ヤマザキパンなどでも生きていけるようです。お酒は夕食にクリアアサヒの缶ビール1本。タバコはラークから値上げを境にフィリップモリスとなり、1日1箱のペースでした。

 今年はスケジュール帳を使って年度計画を立てました。筆頭に挙げたのが生物の勉強。ついで化学、数学。それから何故かゲームを日課にしようとカプエス2、モンハンクロストルネコの大冒険3をやっつけないと気が済まないらしくスケジュール帳に記しました。さらに応用情報の勉強、コンピュータ将棋の開発、5月から社会科もついでに勉強、ギターの練習、またゲームに戻ってPS2のペルソナ3、ヤンジャンとモーニングのマンガ雑誌の定期購読を始め、鍵盤楽器のキーボードも練習、11月にはXBOX360アーマードコアVを買って攻略。

 さて12月になって読み返すと、年中びっしりと何らかをしているものの、継続期間は3ヶ月から5ヶ月が単位で、何かしていつの間にか飽きて新しいことを始め、記録を見てまた続きをしてという感じでした。まあ、横道に逸れたことも含めて、記帳を続けられたことで自分がどうなのか分かってひとつの成果かなと。先んじて目標を立ててこそスケジュールという気もしますが、ライフログとして使って、あれもこれもしたいの時間的限度が分かったと思います。

 スケジュール帳はダイソーで100円で買ったものですが、来年用は300円で今年の分より少し大きめ、書き込める内容量が倍のものです。今までやりたいと思って来た事、だいたい年度計画にしてみて1年もかからずやってみたらモノになる事がほとんどでした。長い予定を立てるに相応の大きな目標を立てて、それに取り組む。来年はそういう年にしたいです。

文筆がライフワークの10年間

 石の上にも3年という言葉があるが、10年やって駄目なことは諦める手も考える。子供の頃に読んだズッコケ3人組の作者様が「ヒバクシャ」ということをテレビで知った。まあ、被曝は悪いことではなく災難だったと思うけど、そこまで生活に支障がなくても被曝認定されると国から保険金が出るので、保険金で生計を立てながら子供に小説を書いて読ませて小遣いを稼ぎ、作家としての夢を持たせる。そういうことが丸々ひっくるめて良し悪しの判断を付けることは難しいが、トリックではあるよなと思った。

 俺も20代はプログラマシステムエンジニアとして働いたが、30代は病気で親に養ってもらいながら派遣プログラマでお小遣いを稼いだり借金を返したりしていた。そして貯金が出来て休んでいるところに、社労士さんの勧めで障害年金をもらうことを決めた。二度の裁判で、俺は国から労災を認められ、厚生年金をもらえるようになった。額は言えないが、会社勤めの6分の1ほどの額だ。これではとても食っていけないと思ったものの、親の老齢年金もあるし、店もあるし、仕事も貯金が減ったらしようと思っている間に40代も半ば、ブログを書いてアフィ収入を楽しみに、ギター弾いてテレビ見て、PS2やDSで遊んでとにかく街ブラでお金使うようなことをしないで過ごせば、年金生活でも貯金が増えていくやりくり。

 建前としてブロガー、ギタリスト、投資家などとしているが、もちろんプログラマでもあるけどそれは実務からは退いて趣味として続けていて、年金をもらうことは最初は親の教えである「働かざるもの食うべからず」で罪悪感があったが、3年も経ってみると会社の経営者に首を切られないように肩身の狭い思いをするでなく、何を敵に回しても国が食わせてくれるみたいな無敵感が備わって、ああ、これが皆が社会保障のついた公務員とか正社員になりたがる本当の旨味なのかもなと思った。

 俺も病気が本当に辛い時期を過ぎ、お薬や休職でかなりマシになっているけれど、お医者さんからは車の運転はやめておいたほうがいい、フルタイムの仕事の復帰は無理があると思うと守ってもらえる。病気になる前はしんどくて心療内科にかかっても「どこも悪くないです」と突っぱねられたものだけど、残業120時間くらいしていた。ただ、IT産業という言葉もなかったし、プログラマというのが何とも得体の知れない職業で、それなのにまあまあ高給取りなのが使いぶりから嫉妬を買い、頑張ってる割に肩身の狭いという社会との摩擦もストレスだった。恐らくだけど、厚生年金はよく働いたプログラマへの実質的な恩赦なのだ。富士通システムエンジニアが何百人とリストラというニュースが流れたこともあるが、もしかしたら退職金とか何かのカラクリで、それ相応の保障が与えられているのかもなと想像する。

 その中で、このブログってやつも仕事をせずに暮らしている申し訳なさから、広告業としての小遣い稼ぎを言い訳に、何か手慰みとして「しなければならない」というところで暇人の間に義務感が広まっている感じすらあるんだけど、俺から言わせると10万円そこそこのノートパソコンで暇人がパチパチとタイプした文字よりも数千万から1億くらいの制作費をかけているテレビのドラマとかが見られないで通り過ぎる、毎週出るマンガ週刊誌が読まれないで回収になる。そっちの方が戦犯の度合いが高いようにも勘定できる。

 今年の初め頃までは読売日テレだったけど、秋以降はずっとNHKを見ていました。受信と発信のI/Oバランスで、パソコンのキーボードを使っている分だけ、テレビやラジオに投書で寄せられる意見よりも視聴者としての発言がブログからダイレクトにテレビ局や広告主に届くので、もうすっかり王様気分で番組を楽しませてもらいました。

 その中で、過去の功績に恩赦があったとして、それを認めない現役のプロレタリア労働者の間で、俺が実質的にブルジョワジーと化して見え、革命するべき対象と捉えられる危険性は無視できないし、その傍らでゲーム強いとかギター弾けるにパソコン強いというのが金持ちイコール受け手ではなく「いいぞもっとやれ」という側に立ってくれる応援者もちらほら。

 まだまだ、自分の身の回りではなく波及効果を考えても分からないことだらけで、摂取する情報源のさじ加減ひとつで自分の思想にもグラグラ揺れる不安定な要素はあり、NHKに押されて右傾化が進む中で無自覚に轢き殺してしまっている人に佐野史郎さんから警告を鳴らされたり。元々が相当に左寄りで文句垂れで、そのくせ仕事やゲームに打ち込んで成果出して戦績上げて、結果「この子こんなに強いんやったらいっそ右に付いたら楽勝ちゃうの」と某局から担がれて、それから読売になってNHKになったという。

 しかし自分が引っ張ってきた感のある左の人々を勝てば官軍で寝返って切るのも如何なものか。三国志呂布なのか俺はと思ったところで、呂布なんて知らんよね。そうよね。戦国武将に例える方がまだまともよね、というところで戦国も終わって渋沢栄一の大河が落ち着いたところで来年から何しよっか。働いている人みんなの仕事がちょっとはラクになる仕事。

 そう考えたら活字なんてシゴいて読ませるでなく「テレビ見ろ」「マンガ読め」は正義。

論理回路から電子計算機へ

 俺は冗談は交えながらもノンフィクションのブログを書こうと心がけている。真摯に向き合うなら、例え話や冗談は避けるべきかもしれない。ここは悩む。ユーモアのひとつもない話が読まれるはずもないという前提が先にあるから。これらの悩みは結局は世の色々の話が本当か嘘かというところでグルグルと渦を巻いている。

 本当か嘘かというのは深遠な問題である。人の言葉は皆企みを持つものだから、言葉を起点にして得られるものは何かというと「モノ」だけが本当である気もする。嘘でも好きだと言って欲しい、結婚していなくても不倫関係で肉体関係まで進んでしまったら、では遊郭での遊びは。本当か嘘か嘘か本当か。論理学というのは物事の真偽を言葉の辻褄で突き止めてゆく学問である。その発展は人が言葉を覚え、言葉が文字として記され、やがて農奴と貴族に社会が分断されてから、実体験ではなく書物を起点に社会を学び、言葉から真偽を解き明かさなければならないような学者が職業として登場してから発展したものである。

 ところで、俺は情報処理技術者である。コンピュータの取り扱いをする下級の公務員だ。コンピュータは原則として通電を1としてそうでない場合を0とした二進数の数学とセットで考えられる。コンピュータが二進数で考えているわけではない。電気回路に通電して、電気が通っている箇所を真値と捉えることで、電気が通ったかどうかで真偽を判断する機械なのだ。ホンマか嘘か、ウソのウソは本当でホンマにホンマにホンマは本当でホンマにホンマにホンマやけどウソはウソで、ウソやけどホンマはホンマで、ウソやけどホンマっていうのはホンマとちごてウソやねんくらいになってくると、だんだんとワケがわからなくなってきて電子回路を使ってみて、電気が通ったからホンマだろう、みたいな機械であり、基本的に使い途は無い。

 このどうしようも無い発明を便利にしたのが、二進数なのである。ホンマは1でウソは0とするのではなく、0と1でも指1本分数は数えているわけだから、0と1で1+1の2は数えられない。そこで素子を増やして、2を数えるためにもう1個回路を増やして通電で2を示す回路を併設して、そこが通電したら2と数える。けど、便宜上通電は1なので、00=0,01=1,10=2,11=3として素子をさらに増やすと指-3本目ここは3ではなく11で3を数えられるので4とする。000=0で001=1,010=2,011=3,100=4,101=5,110=6,111=7で4本目の指が8。これが指8本分並んで有名な1バイトで0から255まで数えられる。ちなみに後ろになったが0と1の素子ひとつが1ビット。

 それを10進数で8桁だから16ビットまで並べて演算回路と組み合わせ、液晶の棒線7個でアラビア数字を模したものが電子計算機だ。ホンマか嘘かではカタの付かない問題でも、学者の頭ではなく商人の頭でカネにしてカネなら数字なので数字で計算して損か得かに変換したら論理回路にも使い道があるのではないか、珠算の出来ないものでも道具で計算ができる。これが電子計算機だ。

 電子計算機の歴史は浅く、数と言ってもカネしか扱わないのはそれがそういう頭だからだ。学者は学者で言葉でものを考えて、嘘かホンマかを求めている。俺の20代の仕事は公文書をホンマであることを裏付けるため、計算機がホンマにホンマやと打ち出しますという証明のくだらない話で、文書が何であれそこに一級建築士の印鑑が押されたら建設許可のホンマが通るので、とりあえずは一級建築士事務所に向かって書類がホンマにホンマにホンマであることを示せればそれでお給料がもらえて、定食が食えたのである。

 しかし建築士と言えど定量的に仕事があるわけではなく、ゼネコンが政府機関から談合でお金を取ってきてくれるので、お釣りが計算事務所に回ってきているだけ、ホンマかウソかで御上を説得することは出来ない。計算機は当時1台約50万円、そこに俺の給料が月給25万円、計算機メーカーの平均月給が22万円、ではその電子文書が本当にメーカーで二ヶ月かけて生産した計算機1台よりも価値があるのかね、ナンボのものだというところで俺は富士通に転属となる。そこで俺は初めて社員食堂でランチの値段を自分の頭で計算し始めたのだ。

 情報処理技術者は旧通商産業省、現経済産業省の管轄である。俺は技師として、まずはお米の値段からランチを起点に経済を考えることとした。ホンマか嘘かではなく損か得かである。


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