何のために善は行われるのか

「贅沢は敵」とも「貧乏は敵」とも言われる。

どちらかというと俺の子供の時から贅沢で敵視する人と優しくしてくれる人がいた。

もちろん、優しくしてくれる人が良い人だと思ったが、それは近寄ってお金をもらいたいからだろうと気付いたのは色々なことに使ってお金がなくなったときだった。

それまでは死んだら天国に召されたいというような思いで善業を積もうとしていた。天国も地獄も非科学的で信じないという話は理屈では分かるが、お金を持つことより払った時の人の嬉しい顔とか親切にした相手のお礼が嬉しくてそうしていたと思う。

それは同時にすごく単純に無愛想な人が嫌いだった。商店街の生まれなので愛想が良いのがデファクトスタンダードつまり標準とか普通だという感覚で育ったからだろう。

少し話は変わるがレコードとかカセットテープとかCDってやつは買うのが善だと思っていた。それは自分が著作権法を守るのだからそうだろうと単純に考えた。

しかし、人から「何故ダビングしないで買うの?」と聞かれ「違法行為はしたくない」というと「えっ!ダビングって違法なん?」「そうやで」というと相手は怖がった。

俺は法は自分で守ればそれで良いと思っていたが、守るものと守らないものが同時に居ると相対的に守らないものが悪くなる。だいたい守らないやつは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの冗談のような標語で動いている。

しかし法規的と言うか車が青信号で突っ込んできて赤信号をみんなで渡っていれば危ない。

著作権法を守ってきた俺はプログラマーという職について高給を得て、それは以前にも書いたが税金からの予算を取ってきて工賃制ではなく給料制だから成り立っているのだが、著作権が守られているから売上や賃料からお給料が出ていると誤解していた。

お給料をもらってカレーやラーメンでも食いに行くと夏場の客席はエアコンが効いているが厨房は暑そうである。飲食店のランチタイムは重労働なのだ。それ以外の時間帯は知らないが。

いろんな店がある。神戸牛ハンバーグとか和食ランチとか中華料理店もあった。

その中でカウンター席で話しながら料理を出すような店を気に入ってよく通った。基本的に他の店はメニュー以外の話はしないものだったが、そこで飲食店お人とサラリーマンでよく話をするようになり、話をすればするほどお金の回り方に納得が行かないという話になった。

だが近頃はマクドナルドや「ほっともっと」にCoCo壱番屋にスシローなどで飯を食う。会話のない店のほうが気楽だと思うようになった。それに料理のカロリーなどで考えると中間工業化が進んでいて手料理の店より安い。

高いお給料をもらっていたサラリーマン時代は高いものが良いものだと思っていて、高いものが好きでもっと働いてもっと給料がほしいと思った。だが今は安いものが好きで、ダブルチーズバーガーでもチーズバーガー2個より充分にチップを弾んでいるし、それでハンバーグが2個食べられるわけだし、それすら面倒な時はカップラーメンにゆで卵を食べれば料理も洗い物もいらなくて栄養価としては充分だと考えている。

「高いものには値段相応の価値がある、そうでなければ詐欺である」と本で読んだことがあるが、値段相応の価値というものが品定めできないと、良いものを買ったか詐欺に会ったか判断できない。だから俺はその本の内容が実は詐欺であることを悟っている。

どちらかというと、良い仕事をしていれば誰かがその価値に気付きお金はついてくるもので、お金に不平を漏らす人というのは怠惰で悪い商売を目論んでいるから勉強してお金を持っている人は騙せずになかなか利益が上がらないでやっぱりお金がないのだろうと考えている。

しかしそれでも善を考えるなら、怠惰な人を無理やり働かせようとするよりは楽がしたいという思いは尊重して、そっとしておけばその人が困って動かざるを得なくなるまでは望んだとおりに退屈なわけだ。


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