ストIIターボからスーパーストIIくらいのリュウは波動拳の出が速く、色々の技がある中で「とりあえず波動拳を打つ」という選択が結構強い。ほとんどの技はゲーム開始の距離では届かず、波動拳が勝つ。
しかし波動拳は隙が大きくジャンプされると隙にコンボを食らっていきなり負ける。
そのため、波動拳を打つ以外に相手が波動拳を見越してジャンプするのを待って対空昇竜拳で落とすという選択肢が出てくる。
あとは相手キャラにもよるが、ことリュウ同キャラならこちらが待つと相手の波動拳を食らうことになる。波動拳は体力ゲージ4分の1ほどのダメージ量ではあるが、ガードするとその4分の1の16分の1くらいのダメージにだと仕様上は設定されている。だが現実にスーファミのストIIターボで波動拳だけで戦うと、ガードしている相手を倒すのとタイムアップが競るくらい、タイムが切れるよりKOが少し早いという程度のダメージ。
そこでゲーム理論で、ストIIのリュウ同キャラはつまるところ「波動拳」「飛んでコンボ」「待って対空昇竜」の3すくみのジャンケンを毎寸繰り返すだけのゲームではないかと考え、削り1点、対空4点、コンボ16点くらいでジャンケンに勝ったら店の入るゲームに単純化して考えてみたらどうだろうと考え、それらが釣り合う確率はゲーム理論のナッシュ均衡と同じ意味になり、それが答えでそれ以上のものはゲームから得られないとも考えてきた。
だが、それらは時間無制限でKO勝ちしか無い前提なので、制限時間が来ると残り体力の多いほうが勝つので、初手はジャンケンでも、いきなり負け確になりえる削りとコンボは初手としてふさわしくなく、まず待って、最悪のケース1点減点というところからゲームを始め、弾ジャンケンで数回勝つと体力差が付き待ちで時間が過ぎれば体力の多いほうが有利になっていくので、そうなると逆転の目を与える弾やジャンプはますます減り、対して相手側は一発逆転を狙う必要があり、ジャンプして落とされて終わるよりは相手が弾とジャンプをやめて待ち戦略になることを見越して歩き投げに行く、という戦略に変化していく。
ここで歩き投げに戦略が変化するなら、ディフェンス側は波動拳を打つよりも飛ばれたら対応できる中足払いでのけん制を織り込むようになり、中足払いを大足払いで狩る足払い戦が展開される、と思いきや、イノキイズバック氏のリュウを見ていると、相手に飛びはありえないと踏むのか、けん制も大足払いで、結局お釣りがすかして大足払いか波動拳をもろに食らうのみで成功すれば相手ダウンで起き上がりに波動拳を重ねてもう1点リードという博打大足払いを多用し、それで相手に投げられることが無く大足払いにお釣りをもらうのが下手に見えてギャンブル的に必要経費としていることが分かる。
ここまで考えると、リュウケンガイルのうち「いきなり波動拳」で1ポイントのリードをいつでも取れるリュウ対足が速く投げに行けるケンは1点取られてけん制の大足を使われるとポイントが取り返せずリュウ有利のままほとんどのゲームが終わり、同様にリュウ対ガイルはソニック裏拳で同時の弾がガイルの勝ちとなる関係から、やはり逆転が起こらずガイルの勝ちになるようである。
まあ、実体験というか実測値というか、自分でガイルを取って手前味噌な北米大会優勝1度というのは単純戦略ではありながら、まぐれなしで、日本の強いリュウにはソニックブームを大竜巻で抜けられる選択もあり、五分五分程度の勝率となった。
そこまで踏まえて、種々の格闘ゲームに挑むと、爽快感や逆転性の乏しい削り合いにダウン時にギャンブル性の高いハメシークエンスに移行する相手と起き上がりにガードかリバーサルかというより単純なジャンケンにストレスを感じる。
無論、ハメシークエンスには目押しやヒット確認などのコマンド要素も絡み、そこでも勝率を上げる工夫はあるのだが、キャラを動かして遊ぶゲームでダウンや投げモーションで動けないキャラを待って、瞬間のシークエンス遷移タイミングだけが操作ポイントとなるゲームに楽しみは見いだせなくなった。負けるからストレスかというと、待って何もしない相手を投げ続けて勝つのもそれはそれでストレスである。
ゲームの旨味がどこにあったのか、というのを勝負を突き詰めて楽しくなくなってから振り返って、それでも長年引っかかったゲーム理論での三すくみにそれ以上の解法が導けたわけで、それは当たり前のことがもっともらしくなったという話ではあるものの、論理的で客観的な前進ではある。
今後はシークエンスの遷移のタイミングはいつ取るのが最適かとか、ハメシークエンスの研究という多くのプロプレイヤーと同じテーマの研究、それに数的な研究ではなくコントローラを使った練習など、まあ誰から見ても普通に遊んでいる、普通の取り組みもそれはそれで続けていくと思います。
弾ジャンケンを否定するものではないにしても「弾ジャンケンである」と仮説を立てると「いや、それだけではないでしょう」とは言われるものの、どこからも言葉として出てこなかった静かな駆け引きが言葉に出来たんじゃないかと。
まあ、そのゲームは家で暇つぶしとして遊ぶことはあっても、100円賭ける価値は完全に見失っており、シューティングも家庭用中心になって、引きこもり係数がやたら高まっている中で、それでもくだらなくてもゲーセンで遊ぶことで顔を見知って立ち話から食事を共にした所謂ゲーマーとは何であったのか、というところが欠けており。
対戦ゲームである以上、相手の読みを当てるところが面白く、読み合い不在の勝ちパターンが確立されると楽しみが減るのもそれはそれで摂理。新しいゲームに乗り換えるこういにはそれなりの合理性があるのだろう。
論文ライクに書きたかったが、横道にそれた部分も文章の味と思ってもらえれば。