ブログという物書きを続けてきたのは、高慢に言うと「俺の方が賢いから書いて教えてやる!」みたいなところがあって、それでまあ多くの人に読まれることで多く自分より物知りな人から助言をもらい、んでまあ書いている俺も読者も賢くなったとしてみて、世界はほとんど変わらないわけです。段々と社会問題が浮き彫りになる感覚はあれ。
そもそも政治や経済から人の目をそらすための娯楽に興じていて、ゲームについて議論するというバカなところが出発点で、人並みのところまで話題が移ったということ。
それでまあ、何故に専門学校も卒業しているのに学び直しを目指したかというと、しつこいくらいの愛読書森博嗣の小説かエッセイの一説に「速く走る競争と言ってもせいぜい2倍で3倍も差が付かないが、頭の良さは10倍でも効かないくらい差が付く」というのがあるんですよね。この言葉の真偽のほどですけど、四つん這いの赤ん坊とプロの競争選手で競争すると10倍どころではない差が付くものの、並の大人の知力まで育っていたら、そこからさらに10倍はなかなか付かないんじゃないかとふと思うんですよね。自分が10倍とは言わずとも勝っている方で、後れを取っている所より賢いとするのはどうか、という問題はありますが。
つまるところ、何を持って10倍とするかというと、森博嗣の趣味が鉄道模型やラジコンで飛行機に憧れていて、人が足で速さを競って付く差よりも工作をして乗り物を作ってそれで走るとマッハまで速くなるわけで、その速さの差を「頭の差」に集約しているところなんだろうけど、蓄積された知識と財産と伝統があって初めてなされる差なので、ひとりの能力みたいに考えて速度の差を頭の差に換算するのも違う気はする。
まあ、今俺が気にしているのは頭の差より貧富の差ですが、これも大企業の経営者が何億何兆と持っていたら、俺の何倍だろうと額面の差を頭の差に換算して考えてしまいがちだから俺ってバカなのだろうかと悩んできたんですが、若くて賢いけどお金を持てない人だって幾らでもいることを考えると、賢いって言ったって漠然としたドラクエの「かしこさ」みたいな尺度があると思っているのが根本で、そりゃひとりの人間が行動変容だけでどこまで世界を変えられるかという哲学的な話はひとつにまとまるはずもなく。
そこへ行くと比較的に少人数で出来るポップミュージックとかマンガ描きなどの楽しい趣味で大成功をしたテレビの話を真に受けてレコード会社や出版社の元で歌ったりマンガを描いたりしているのが、10倍とかそういうことではなくひとひねりの気づきの問題で、まあ夢を見ているだけなのだろうなと思うんですよね。そうすると億万長者の現実も金額の差に着目するのではなくその人を取り囲む物質世界のひとつづつの実存にこそ意味があるわけで、建築、内装、人間関係、移動手段くらいに絞ると客観的に普通の人が何らかの権力を持っている、その権力は本当にその主体者の「頭の良さ」なのかと考えると、それも違って見えてくるんです。
まあ、そう考えると自分自身の話になるんですけど、物心ついたころから両親と姉がテレビに夢中で柵付きベッドの上で幼少期を過ごした俺は、親の顔よりテレビに夢中の横顔が印象にあって、お姉ちゃんと同じだった子供部屋には「光GENJI」というジャニーズアイドルのポスターが貼られており、こっちを向いてという感覚より子供ながらにテレビに入ってそれを見て欲しいみたいな欲求があって。
だから女性と交際して彼女が自分を向いて話をしている、みたいのがテレビが現実になったみたいな感覚しかなく、毎日テレビで美女を見て、テレビに自分に似た人が出ていたらそれで良いみたいな感覚が「早く光GENJI になりたい」と思った幼少期から、中学くらいにはファミコンとラジコンにファンタジー(中世ヨーロッパ風の異世界)で創作世界に入り込んでいたので、そこから現実社会に帰って来ても、現実社会というのはお年寄りがテレビを見て過ごしている商店街という入れ子のような構造で。
そうしてこうして毎日ブログを通して遠方と交信しているわけで、近所の現実をどう変えるかというとITエンジニアより介護職の方が求人を見て現実的で、親父はまだ元気だけど、その日は来るだろうし、自分の寿命だっていつまでか分からない。ただ、幼少期からの動機付けとして、テレビに夢中の姉と両親を祖父母が裏方になって支えていたように子供からは見えていて、お爺ちゃんっ子だったから、祖父の葬儀の後は受験でそこからバイト専門学校ゲーム会社派遣SEとコンピューターワールドに入り、逃げ帰った家で軟禁に近い状態から精神病院に行って退院後に今の生活につながっているわけで、多分どこかにある「社交界」みたいなのを探しているけど、今時の世の中でそれは婚活パーティくらいしかなく、社会構造が幸福な結婚生活を送るに適さないのが、そもそも家族で住む木造の日本家屋から男性出稼ぎ社会に応じたコンクリート造の小部屋しか与えられない都市設計にもあり、こんな家でどう子育てするんだという勘案のひとつとしてそこそこ裕福な「クレヨンしんちゃん」的な家庭モデルがあって。
狭い家で貧しくても好きな人とふたりなら幸福という幸福像を作って貧しさから目を逸らさせるというのがまあ恋愛結婚の時代だったのだろうけど、それをテレビアイドルが壊してしまったというか、結婚生活が家族でテレビ視聴という時代の子供でした。
そう言って、俺も趣味全部やめて毎日テレビ見てりゃ幸福なんですよ。テレビやマスコミは一体だれのものってテレビ局の狙いが何であれ、NHKの受信料なり民放の広告料なりお金をもらって番組作って放送してって仕事があって、政治的意図以上に視聴するお客さんを取らないと始まらないってので忙殺されていると思うんだ。それが90年代に流行った視聴率神話で、テレビが何を与えるかよりお茶の間が何を求めているか。
んでその先にある今の時代がお茶の間で待っていたら気付いたら歳をとって弱った国家という所で、それが隣国の陰謀であったとか、そういうことではなく自然にそうなったんじゃないかな。科学の世紀で健康長寿になって富の総量が増えてそれを権利を持つ高齢者がたくさん持っていて、貧富の差を埋めるための仕事が動けない高齢者を介護して分けてもらうしかないって、そういう話は子供の頃にイギリスの老人の家を訪ねるお医者さんとそれを装う詐欺師みたいな本で読んだ記憶がよみがえってきたんだ。
どのみち、ひとりひとりのお年寄りをどうにか順番に片付けないと、政治の制度とかで解決は出来ない。近所のスーパーに買い物に行くとお年寄りのお客さんも多くて一緒の生活圏であることから、動けるうちは良いけど動けなくなったらそこに介護求人か野垂れ死にがあるわけで、自分がその年まで待つか、それとも何かしたいことは残っていないか。
10倍賢くなったら世界の見え方はどんなだろうと言いながら、動かずにテレビ見てる。受け身になっちまったら、賢さなんて本当に大して関係なくなってしまうよな。
