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テレビ見てゲームしてこどもの日が終わってしまった

すまたん名場面集を見てニュースが流れたら傷害事件の容疑者が自殺と聞いてプレステ起動。FFVIIは回想シーンを交えて進む物語で、そのオチとして記憶が不確かというのはな。そうか、その手があったかと思った。ミッドガルでの話は何だったんだ!でも進めて良かった。この展開も嫌いじゃないよ?

世界コンピュータ将棋選手権に出場することが夢だったことがあるが、将棋ベーシック改の棋力で自分と釣り合っているので満足してしまったんだ。自分で作って自分で遊んで、そうだな、子供の頃には相手がいなくてコンピュータ将棋だけが遊び相手だったから将棋に関しては自己完結してんだけど、作った後は自分でネット対局をやりまくって飽きたんだっけ。やりまくったと言っても100局くらい。

今朝に本日決勝であることを知り、中継を見ながら「ああ、夢だったこともあるな」と遠い目で。作ってみて「思ってたのと違うな」ってのが大きいかな。もっと将棋と同じで思考のバトルでコンピュータを介在する分、面白そうだと思ってたんだけど。どう表現するより思ってたのと違ったとしか。

あとは昨晩あたりからFFVIIのようなゲームを人工知能でプレイできるか考えて長文をしたためたけど、ナンセンスなのでやめた。会話から場所を連想しておつかいRPGをこなすっての、人間でもピンと来る人と総当たり的にやる人と両方いるよね。プログラムでやろうとすると難問だけど擬人化して育てられた人工知能が人のように遊ぶと解くかも知れんなと。幽霊のような敵が時々消えて無敵になるのとか、キャラが人だから消えたものは見えないだろうと論考とか類推とかしてるわけじゃなくて、ボタン連打してて「あれ、こいつ消えたら無敵なってる?」「待ってみて攻撃したら当たった」「なんだ、待てば良いんじゃないか」みたいな理解をプレイヤーの俺もしてるじゃんって。

格闘ゲームRPGの戦闘を比べたら格闘ゲームのほうが複雑だけど、RPGというのは文化的な人間を楽しませるために作られているゲームなのかもな。物語を読み進めることで毎日格闘ゲームを極めんとするよりは文化的な生活を送っている気がするよ。言葉、会話、人物、景色、物語が画面の中で箱庭のように俯瞰できるのは楽しい。あんまキャラが大きくてリアルなのは、この箱庭のような空撮感が得られないので別ゲー。

あとはギブアンドテイクというビジネス書をネットの紹介文で読んで、その論理のおかしさについて考えた。書籍代の1800円は勿体無いから出さない。ギバー、テイカー、マッチャーを最初は労働と金銭で説明しておいて成功するギバーを金銭でないものの提供者とすることで世の多くの教訓が人にギバーになれと諭すこととの矛盾を隠している。だけど、これは組織人が「頭は軽い方がいい」とテイカーやマッチャーが取り分少なくても文句を言わないギバーを担ぎ上げているだけで「負け犬はギバーだけどギバーの成功者もいるから」と騙していると考えた。読んだ本は論破するという習慣を持っていないと、世の中の出版物は人をどんどん騙してゆくから。

かくいう俺も随分騙されてから今の歳になって、そりゃ年食うと誰でも相応に経験は増えるよな。成功体験もあれば失敗の反省もあって。ただ、その時は成功と思っていても人生をさらに長いスパンで見つめ直すと小さな目標のために回り道をしたという風に考え直すこともあって。捉え方の変化だけだな。物理的な変化の少ない生活だから。