久しぶりのストリートファイターIIX。アツくなれるということ。

このところ、わりと規則正しい暮らしをしている。

会社をクビになった経験のある俺は転職してから遅刻をしないようにと夜に無理に早く寝ようとして緊張で目が冴えて、そのまま不眠症になり精神病になった。

病気になってから、精神安定剤を飲んでそれまでの趣味が楽しくなくなった。

それまで趣味というかゲームに没頭できたのは童貞だったからだと今では思う。

勝てばモテてエッチできる。男にとってこれほど脳汁が出る動機はない。

性欲が満たされると、あとは名誉欲のようなものがまとわりついてゲームした。

いやゲーム以外に方法あるだろと今では思うが、当時は思い込みが強かった。

それに、どうしても勝てない相手というのがいた。強さに憧れた。

それでクスリを飲んで楽しくなくなってからのほうが冷静にゲームできている。

アツくならずに敗因をひとつづつ分析してつぶしていく。克服していく。

ゲームそれ自体の画面や音声で煽られる楽しさでなく積み上げる楽しさ。

その結果、ゲーセンよりもプレステなどでコンピュータ戦を主戦場に変え、

やがて練習した暁に人気のないゲーセンでストIIXとはハイパーをクリアした。

セガサターンでは全キャラクリアしたので、あとはそれを披露するだけだ。

再び対戦をしてみて、自分が負ける相手を数えると、本当に少ない。

それでも上はいる。それは分かる。

病気になる前は画面や音声に夢中でカネを払ってゲームしていて、弱かった。

弱いから勝つと嬉しかったのだ。

クスリを飲んでいると、勝ちも負けも感情の起伏はほとんどない。

どうしてあんなに夢中だったのか、思い出せないほどである。

それと同時に、ただ勝つと嬉しいというだけでなく「大会で注目されるには」というところも突き詰めていくようになった。

そう考えると、ただ見慣れた技で勝つでなく、新技披露の玄人受けが大切。

重箱の隅をつつくようにやりこまれている古い格闘ゲームで何が新しいか。

それを知っているのは自分たちだけで、ゲーセンで見せてしまうと水の泡だ。

だから、勝ち負けを目先のお金の問題にすると100円なり50円の取り合いだが、大会でスポットライトを浴びる新技の取り合いだと考えると、既知局面で辛い時に新展開で勝ってしまうのは目先の100円にもっと大きな獲物を横取りされている感覚になった。

それからゲーム理論の面でも深く考えるようになり、深く考えると浅い段階で気づくべきことをいくつも取り逃していることに気付くようになった。

そうすると、自分の動きが見せる演舞の動きでなく、どこにでもいる人の動きに勝ち負けを軸にしたときの勝ちにこだわる泥臭さとして正しさがあることに気づき、それと同じに見えてアイデンティティが消失することを甘んじて受け入れた。

お金はあまり払いたくないけど、新技を1ラウンドのために披露するにも味は良くない。やがて、対戦することそれ自体の意味もその場の勝ち負け以外に取れるものなど何もない。むしろすればするほどお金は取られるし技は取られるという感覚になった。

そうすると、相手の技を取って戦う格好に変わり、それからゲームはシーソーになった。

勝ったり負けたりひっくり返し合う。その中で、両者技を隠しあったときに初めて昔に夢中だった対戦の駆け引きに一喜一憂というか、隠しようのない当たり前の技で純粋な読み合いの勝負に自分の思考を載せ、それで相手に上回りを取られる悔しさがよみがえった。

お互いに知れ渡ったあたり前のことしかやっていない、それでいて差がつく。その正体は何か。自分の動きを人が全く読めないような形にすることが出来るか。そういう勝負。上手いとか下手の技量面ではなく、狡猾さというか強かさというか。

以前は豊富な知識や操作の技量で差がついていて勝てていた。もちろんカネもあった。

それらを全てイーブンにしたときの純粋な読み合いだけの勝負。もちろん、読み合いのシーソーをイーブンに保つための最低限の操作をミスしない緊張の糸は張られていて。

その緊張に対する慣れの差が、思考を自分の操作ではなく相手の思考に多く割くための腕と言えるのかもしれない。負けるときはどこか、楽観的で自分の操作に酔っている。

最近は夢中になれることが見つからないでいたが、昨日の久しぶりのゲーセンで、自分を見つめ直すきっかけになる対戦ができた。対戦に対してゲームに対して内省は深くても、飯を食うときの所作とか、人の輪で上流に位置するために自分に足りないものは山ほどある。服や髪型のオシャレだってそうだろう。

そういう意味では、勝って称賛される人がゲーム以外にしている努力で自分に足りないものもまだまだ山ほどあるようにも思える。

そういうものが過去にはゲームの強い人という固い壁があって、それを破れば堰を切ったように一攫千金に全部自分のものになると想像していた。

そうではなく、着実にひとつづつ相手の技を自分のものとし、自分が相手そっくりになったところでその上で相手より1歩先を生み出していける。相手とまるっきり違うことで出した個性などで勝負に勝つことは出来ない。悪目立ちするばかりで、おいしいところだけ盗み取られてしまうだろう。

どれほど差があるかは相手がどれほど目一杯押しているのか分からない以上は計り知れない。ただ、勝負の中でいま相手が押してきている技量が今まで体験した中でいちばん強いという感覚だけは確かなものだ。勝負の先に勝つには勝ったが、手応えを失った。俺が時々そうするように目一杯押して負けたと悟られないように手応えを無くしてワザと負けたように引く。そういう手応えでは勝ったから何なのだという感覚になる。

ただ、連戦した相手がそういう手を取ってきたというのは自分でも初めてだ。力でねじ伏せるように勝っていると、それと気づかずに終わってしまう。

やはりゲームは人間ドラマ。練習期間まで含めて、人を目いっぱいにさせたというサディスティックが俺にとっていちばん味がよく、決してマゾではないがそのサド的快感のために自分が出来ることは用意していく。真面目に相手をしてくれる人というのはそれだけで価値があるというものだ。

来週同じ店に行ったとて同じ相手と同じ展開で同じ快感を得ることはもうないだろう。対戦とはそういう一期一会のものだ。

どうしても続きがやりたいと思う試合が何十試合とやった中に1戦だけあるんだ。あの試合のあの局面の続きを、もう一度やりたい。勝負というのは時々のものだから、あのときのあの試合をと思ってみても、また同じ勝負になることはないし、一度起こってからお互いその勝負の成り行きをそこまでなぞったとしても、それはもう全然別の勝負なのである。

このフラストレーションがどうやったら晴れるか。他の相手に勝ち直しても意味はない、そして魂の抜け殻となった相手に勝ち直しても意味はない。他人からは見ていてもわからない。自分に直せるところがあると気づいたその1戦の悪手を心の中であらためて、また最初からどうなるか分からない対戦の中に身を投じていくものである。

自分でもわからない。だけど確かに、昨日の久しぶりの対戦で俺は何かを得た。そして悔しい感覚がどこかに残っている。ゲーセンに爽快感のある新しいゲームでスカッとしに行っているのでは多分ない。普段、悔しいと思うこと、テレビを見て芸能人の活躍を見て週刊文春で醜聞を読みたいと思うような嫉妬の悔しさではなく、勝負の中での悔しさは味わおうと思っても狙って味わえるものではない。アッサリ勝つか、つまらなく負けるか、それが普通である。

つまり俺は大会優勝ではなくそういう戦いの緊張感のためにゲームをしているのだろうし、高台の筐体で数人のギャラリーを背負って戦うだけで充分なのだろう。

分からないから、自分の考えを書き出してスッキリするために書いた文章だが、人からよく問われるゲームになんでそんなになれるのか。古い同じゲームを繰り返す意味、読んだら文章のどっかには分かってもらえるポイントがあるかもしれない。

まあ、ストリートファイターIIXではなく昨日やったのはハイパーストリートファイターIIなんだけどな。そこは読み替えてくれ。俺はアニメをマンガというようにハイパーもエックスと呼ぶんだ。

ゲームしたせいで遅くなった夕食の牛丼が胃にもたれているが、昨晩の酒は旨かった。

ひょっとすると、そういう酒の肴になる感情のためにゲームが良かったのかもな。