自由を放棄してデジタルの束縛の中に世界を見る

自由はともすると退屈だ。誰の束縛も受けないことは人を完全に支配するか、そうでないなら無視するかだ。口を使うやつは厄介で、自分の意志ですることにも口を出されると従ったように見えて不快であったり、逆らったとてそれが相手の本意かもしれないわけで、俺は自分のすることに口を出す人は全員嫌いだが、はねのけるほどの力があるわけでもない。

ところで、とりあえず離れるとか無視するとかして獲得した自由はあるにせよ、空を飛んだりは出来ない。飛行機で空を飛ぶとか、まあ身近なのは自動車で速く走るだよな。チャリンコひとつ取ってみてもある程度加速しないと立たないし、自動車の中で自由だと言ってもシートベルトをしてアクセルの位置に合わせて足踏みしないと、手足をジタバタしたって進まない。機械に合わせてある種の束縛を受けないと機械の力を我が物に感じることは出来ない。

そう考えると決められたとおりにボタンを押さないと楽しめないゲームなんてのは自由を放棄するような遊び方だ。だが、アクセルを踏むと車が動くようにボタンで画面を操作しているという感覚が得られることは間違いない。幻影みたいなものだと捉える人もいるが、そういうのは大抵ファミコンも遊んだことがないおばちゃんである。画面の画素と回路と機構と人体全て経路としてつながって、一体となって操作しているのだ。

そういう意味ではそうして一体となった自分の操作から広がる世界は既に征服して自由自在となっているほうが意のままの楽しさを味わえる。そうなったのが楽しいのか、そうなる過程が楽しいのか、完全な自由はやはり元通り束縛のない退屈に近いものだ。

新しいゲームを欲する動機は既に持っているゲームの征服からの退屈だろう。持っているゲームに飽きた時にカネの自由が無限でないことを思い出すのだ。高価だからな。


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