側坐核ねえ

脳の側坐核が活発な人ほど自分が得するようウソをつくらしいが将棋になぞらえるとそれは1手読みであって、信用を失うと後から損をすると考える人も居る。しかし、それとて長期的な自分の利益を読んでいるのであって真の善意とか利他的な精神とは区別出来るかも知れんな。将棋も2,3手先で得をする場合と20手読んで結局得になる手は違うけれど、たかだか81マス読むだけでコンピュータでもオーバーフローするわけだから、人間関係にそんな長期の損得は読めないだろう。ただし俺は短期的利得で裏切られた人間とは関わらないようにしようと思っているが、それとて一度損をしてからそういう風にしようと決めているわけで、借りパクや踏み倒しの分は関わらないようにするともう取り返せない。損だな。一度も裏切っていない人間にも用心すべしだろうし、そうすると昼食はマックダブルになりコーラは自販機で買うがこれもそのうちスーパーで買うかも知れない。自販機を使っているのは局面評価ではなく時は金なりだ。


コンピュータに将棋をさせるのは、電王戦の影響でもはや娯楽になったのだろう。テレビ番組の制作費で開発費が出てるようなもんだ。テレビに映るから高い洋服を買ったとして、それが実費なのに文句を言う人は少ない。某先生も格好良く映ったのだから、もう充分ではないのか。来年は何のためにやるんだろうな。もうわからない。サッパリ分からない。何が得で何が損なのか財布の現金以外を数量化すると俺の持ち物はオーバーフローだわ。断捨離するほうが得とか有り得ないと思うが、好奇心は損得勘定抜きで人を動かすことが有るよな。


なんとなくだが、俺の将棋勘は昔に新聞や古本で読んだ盤面の形を格好良いと覚えていて「矢倉になると嬉しい」みたいな動機で序盤を指す。しかしコンピュータの改造と、それを相手にした対局で将棋観は変わってきている。勘から観になったというか。でも俺の脳はコンピュータではないので読める局面数は少ない。だから俺は図形的に考えているのだろう。だが同じことをコンピュータに求めるのはコンピュータに対する理解が浅いのかも知れない。コンピュータは原始には計算機であり数を計算するものだから、数として扱える状態に持って行って渡してやるのがコンピュータに対する親切のようなものだろう。駒の効きは充分に数になるので、互いに駒が効き合っている形というものは理解させれる。それが公開版の将棋ベーシックの思想だ。


だけどもだっけっど、そうじゃないほうが強いなら習うのもひとつ。今は習って正しい手は指せるが、止めてやらないと無限に計算する。あんまり待たされるのも苦手だが、楽勝の将棋ばかり指すよりは良い。遊び相手としての面白さというのも数では計りがたい。勝ち星の数で競うなら、新しいバージョンの研究に行くほうが良いのだろう。残念なのは既にやり尽くされている感じがある所のおさらいで独創性が無い所だろう。ピカソと何の変哲も無い風景画のどちらを絵として面白がるか、みたいな尺度になってくる。


駒を効かせ合って相手の手を待つより、駒を取って取った駒でさらに相手の駒を取りに行くように交換を先まで読み、最後は取った駒で玉を詰ませて勝つという筋に考え方を持って行ける。


しかし繰り返しになるが、手駒の数でなく盤面を見たとき駒の並びが格好良いと思うのは駒が互いに効き合って、駒や隙間のバランスが良いと言う図形的な問題で、それを見たいから将棋を指すという人もいるんだということ。


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