ゲームと生きる意味

 最近のインターネットはつまらないって話をブログ形式で読んだ。

 よそ様の記事だが、過去のネットは無法地帯でもあったが現実との接点が隠されていたので「もうひとつの世界」であり、リアルに生き辛さを感じる人の救いだった。

 それが人気というか接続数の向上とリアルとの強めの結びつきで別世界が無くなったって話で妙に共感できた。

 全然違う話で恐縮だが、俺は中学からゲーセンに通うようになった。ファミコンで遊べるのでゲーセンはまだファミコン未発売の新しいゲームで遊ぶ場という認識が小学校の頃にはあったし、100円貯めればファミコン買えるのでゲーセンはお試しの1回って感じだったが、受験勉強の間に虚弱体質になった俺が格闘技で人を負かすストリートファイターIIでゲーセンに来る見ず知らずの年上の人間とケンカするのに夢中だった。

 まあ衣食住を親が面倒見てくれる上での完全なお遊びだったが、そのせいとは言わないものの進路に迷いゲーセンバイトになった頃には仕事の感もあった。接待だった。

 プロゲーマーとか発足する前に俺は復学して会社員という安定の身分になったので、ゲーセンでかつて競った仲間とはお金の問題で完全に客という立場になった。

 それでゲームを続けてその世界で華々しくSNSなどでもてはやされるのが羨ましいかというと、なんかそれも無いわけではないがそこまで夢中になれるのが羨ましい、かつては自分もそうではなかったかと家庭用中心でもういちどゲーマーたらんとするわけだが、45歳になったのを契機に関連事業で働いていた仲間がお役所の仕事に戻るついで「カーメンってまた呼ばせてもらうが、ゲームやってブログ書いてんのが少し悪目立ちで、普通に暮らしている者がお相撲さん負かそうとしているようなもんだぜ」とたしなめられて、上手く言い返せずに丸め込まれてしばらくと言っても数か月だがゲームをやめた。

 その間に滞っていた他の趣味活ははかどってメシもうまくなり良いことづくめだが。

 高校のやり残しの勉強を特に文系科目で満足した後に化学ももう充分かな研究者になるには不足かもだけど何勉強しようかなってふと生物の本を読んでいたら「反射と条件反射」って見出しがあって、まあパブロフの犬とか言うと有名で知ってる人いるかもだしそもそも高校の教科書に載ってることだったのかとあらためて思ったんだけど、ゲーセン通いが中高通いながらではなくバイトになった時に学校マトモに行ってないゲーマーとウメハラ昇竜拳の話になって「コンビでインチキしてるかもだがもしやるとするとだぜ?」って切り口で「メシとか我慢すんじゃん、それで相手の技見切って昇竜拳で勝てたらメシ食う、みたいなこと繰り返せば神経とかが連絡良くなって見切り昇龍が速くなるかもだぜ」って話と、オリンピックでベンジョンソンが反射神経鍛えまくってピストル合図のあとに走ってんのに0.13以下はフライングって審判に文句言われた話も交えて、大会優勝の賞金とかそん時は大した額じゃなかったけど、公式全国取って雑誌に顔写真乗っけるってスゲー夢だったわけで、マジにやりだした奴も居た。

 それに対してゲーム会社の方はもっとドライでゲーム会社の中で映像や音声からの報酬系とコインを入れて収益性にどう影響するかとかパチンコ界隈で特に研究されてて「あの子たち本当にゲームばっかりしててお金になると思ってんのかな」とか言いながらテメーゲーム会社でゲームに居れてもらったカネで寿司とか焼肉食ってんじゃんって言いたかったけど、あの人らからはゲーマーって実験用モルモットみたいな扱いよね。

 それで俺のゲームの最近の何がつまらないって、以前は有名になった暁には家族とかにテレビで見てもらえて~みたく家族間の関係も薄かったと書いちゃうと、高校時代とかそれでも世話してくれた親に何とも言えないけど、ゲーセンバイトの頃の方が稼ぎを家に持って帰ってたから家族とは仲良く、就職して繁華街で遊ぶようになって家が俺の不在で荒れだしたって順序だったと思うんだけど、結婚した姉が親戚にずっと親に甘えてゲームしてる子供部屋おじさんがいることを子供や同じ学校の保護者にテキトーに説明して、ネットでは案件になってないけど地域では俺のゲームってまあ注目されてんですよ。とてもやりづらく、趣味としての域で「内心プロとか思ってんじゃ」とか「なんでもプロらしいよ」とかいう噂話もあって。

 んで報酬系の話に戻ると、理科系と言っても数理的にゲーム理論でジャンケンになってどうのこうのを持論として、それは公開しているもので並行してコンボ練習とかはするんだけど、どうしてプロと差が付くかというとジャンケンの様相を呈してきたとき決め手になるのが反射神経なら、ゲームで勝って報酬を得てプロとして暮らしている人と親の持ち家でメシとか完備で趣味としてゲームしてるもので条件反射の報酬設定がカネもらえてメシ食えると、じぶんがちょっと嬉しいって報酬系に開きがあって本当に同じ練習成果が出るのだろうかってことを今になってあらためて考えてる。

 禊とまでは言わないってかプロゲーマーってともするとそれ以上の修行かも知れない。若い頃ゲームが楽しかったって今では良い思い出みたいになってるけど、メシ食うのもゲームで家族とも直接話のではなくゲームで勝ってテレビかなんか出て活躍を見せたいって思ってつっけんどんで、彼女だってゲームに勝ったら出来るとか思ってて、そういう風にアウトプットをゲームのコントローラー以外のものに全く込めない視野狭窄が思い出としてあの頃ってゲームに夢中で楽しかったってなってるだけで、ホントに人生の紆余曲折の中では社会的にサイテーの身分だったような気もするけど、今よりオシャレには気を使っていたかもしれない。

 そんな自分にもう一度なれるか、と考えたら引退ってか元々プロなのかって話もあるけど、タオルを自分に投げてやることも、既に周りは投げてくれていてそれを受け入れることが前を向いて生きる意味を考え直す一歩になるのか、それは今までの自分と向き合ったら前向きではなく後ろ向きではないかなどという新しい葛藤も生むわけで。

 「ゲームと生きる意味」と大層な題を打ったので長文になったけど、安全圏の生活からどこまで自分を追い込めるかと考えたら、一生暮らせる年俸をもらった後も活躍する野球選手とかもいるわけで、トレーニング方法とかもまだまだ見直しの余地はあるだろうけど、当事者たらんとする理由や必要性はもうないんだろうなと思うわけです。

 まあ、読者の人がほとんどしらない「もうひとつの世界」がゲーセンの台にあった。


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