自分の思想の方が根拠が分からなくなった

 うちは宮家なわけだが八幡神社といって神様と仏様が両方祀ってある。

 居間の南東の高いところに神棚があり、台所には両親がお参りをしてもらってきた安全祈願や健康祈願みたいなお札が何カ所かに貼られている。

 今の北西側が仏壇で、阿弥陀様の曼陀羅が入っており「聖典」と題されたお経とお数珠に線香やろうそくが入っている。

 それで、いつからか俺は聖書を持っている。洗礼を受けたわけではない。本として聖書を持つのは哲学が好きで、中世ヨーロッパの哲学はその当時の宗教との関わりなしには理解できないと考えたから、読むことにした。

 それで今日パッと開いたエレミヤ書に正義の殺人肯定と思われる節があったので、聖書のありがたみというのはその分量の多さから教会で名言を開くように司祭から指導されて読むからありがたい聖典のようであるが、くまなくよむと結構偏った思想も記されていると現代から思う。

 それで「なんでそうなった」と思ってエレミヤ書を巻き戻り、冒頭から読むと若者が語る術を持たないから主の予言を受けて言われた通りに口にすれば上手く行くと教えられて乗り込んでいくというさまを見て、長年理解できなかった小学校からの塾であった同級生M君の考え方がどうにもこの聖書の一説に根差した、言葉というのは意味が分からなくとも同じように発音すれば同じ言葉であり聞き手がそれで騙されるという思想に立脚したものなのだろうなということが分かってきたのである。

 このへん、仏教では禅問答のように子弟で問答を繰り返して言葉の意味が分かっているかということが重要視され、問いに対する答えを兄弟子から真似たものが耳を切られたというような逸話もあり、これが日本の教育のペーパーテストなども似た仕組みで、答えが何であるか知っているのではなく問題文の意味が分かっているか問いたいのだが、どうしても受験者側が攻略しようとすると答えありきになって入れ子になるという禅問答や意味解釈そのものの抱える矛盾のようなものを感じる。

 そこへいくと聖書を読む前に俺は朝から本当に教える側の聖職者が弟子に教える前に自分で意味わかってんのかと考えていたのだが、特にエレミヤ書を読んだらキリスト教もキリストが死んで弟子の代になると分かっていない奴が教えているということになり旧約派と新約派に分かれることなども何となくわかるのだが、M君の口真似が間違いと考えるのは俺が仏教の中でも特に禅のように考えるからで、彼の宗教がカトリックなら信教の自由から彼の信条が教えを守ることなら合っているということになると考えた。

 そうすると、そう考えている俺の考え方の根幹は何だろうとあらためて考えだし、哲学者で無宗教というのは教義が何であれ守って秩序ある社会の中でその信仰を疑うという一点において異端であるということになるのだろう。ラーメン。


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