お金も増えるし富も増える。マルクス主義に貨幣を取り入れる。

 日本の世の中、自由民主党が仕切っていて資本主義で自由経済競争だ。これは西洋から海を渡ってアメリカに、そして太平洋戦争を経てアメリカから日本に伝わった政治のやり方だ。

 対して日本ではあまり人気のないマルクス主義だが、これ(資本主義)は西洋の中でも西欧とくに英国で起こったが、東欧つまりロシアに伝わる頃には貧富の差がひどいこととなり、マルクス主義が起こって、最大多数の最大幸福をモットーに中露の政治の基本となった。

 マルクス主義を簡単に説明するとお金を巡った経済を排し、住居も田畑も工場も国営として私有財産を否定し、国民は労働に従事して配られたメシを食う。こうだ。

 まあ極端だと思うし、日本の高度成長期には増えてゆく日本の富と目指すべきアメリカ、貧しい中国を比較してマルクス主義共産主義は遅れているとされた。

 しかし時は令和、中国の自由経済やロシアの戦争での優勢を見ると、その隆盛を支える国力として、共産主義もある程度は正しかったのではなかろうかと考える。

 それで、俺は別にこう考える。モノを作って分け合えば余って豊かになる、取り合いよりは良いとすると、十円玉銅貨や日本銀行券もモノであって、造幣局がガンガン作れば良いのではないかと。

 これに警鐘を鳴らすのはインフレーションである。モノが増えないまま金券だけが刷られると、相対的に余ったカネでモノが高くなり貨幣の価値が下がる。お金を数字で見ると多く持っていても、たくさん出さないとモノを買えないので、同じことであると。

 それはそれで経済学のひとつの理論だが、モノが増えないでお金が刷られるとという前提であり、日本円が金本位制度で価値が保証されていたように、札に見合うだけの小銭もしっかり作って、それで農作物や工業製品の流通量が刷られる円に見合えば所得倍増計画のさらに倍、もっと豊かな暮らしがあるのではないかと希望を見た。

 その当時の俺の飯というとカップラーメンで、今はスーパーの弁当を昼食に、ほか弁などの弁当屋の夕食にカップの味噌汁を付けて缶ビールを飲む。食は豊かになった。

 他にはゲーム機である。お金持ちだけの高価なおもちゃであるが、高度成長期にはファミコンのある家庭も多かった。それがスーファミになれば、プレステになれば、これはレトロブームも相まって一概に新しいほうが良いとも言い切れないが、新しいものが良いとして、余り物の古いものも出回るから二次的なブームが来ていると観測する。

 他には札はモノなのか、金本位ならぬ貨幣価値とは何なのかについても書いておく。元来、貨幣は貴金属である。銅貨や真鍮に鉛玉などが使われている。化学的にも希少元素であり、特に金などは砂金を川で集める労力を考えると、他の仕事で貨幣を得て金を買う方が合理的だと思われるから、交換が成立するのだろう。金を集めても飯は食えないが、それが少量の金でも大量の穀物等と交換されるなら、仕事になる。

 その意味では、札は普遍的な元素で出来ている。主に炭素だろう。お金が米になるかというと、交換してもらわないと化学的には交換不可なカネとコメであるが、紙幣となると焼くと炭になるので、炭にして肥料にすれば米の原料にはなりそうである。

 ただまあ、いくら共産党でお金が憎いと言っても、せっかくの万札を焼いて少量の炭にして畑仕事をするほど徹底的な思想家はいないのではないか。誰しも、それならそのカネでコメを買った方が良いという。金が米になるのかと問いながら、である。

 ちなみに、一般的に書店やコンビニには週刊誌のマンガ本が売られていて、千円で三冊くらい買える。焼いて炭にすることを考えたら、日本中で紙幣はそれよりずっと紙の量の多いマンガ本と交換できるのだ。

 他には個人的に200円で鉄製のスパナという工具を買ったことがある。鉄と百円玉の価値というと、それも相場があるのだろうが、都市近郊型のホームセンターで鉄製品や木製品を買うとなると、貨幣の貴金属としての価値を基準とした貨幣価値で見てもまあ納得の買い物が出来る。商売なので多少割高ではあるが、セールなどもある。

 この時に紙幣を紙でモノは価値があると簡単に紙とモノを替えてはいけない。紙は紙でも小銭で言う貨幣幾枚もの価値のある紙幣を紙切れだからと粗末にしてはならない。

 そういう風にお金を数字ではなくマルクス主義でもって造幣局で作られた「モノ」であるとすると、それを基準に物々交換して、自由経済の日本であるから身の回りの店でも段々とマルクス主義イデオロギーに則った作って分け合う社会は実践できる。

 ただまあ、昔の俺がそうであったようにゲーセンで使うとか博打を打つとか、浪費してしまうとそれは成り立たないし、女と酒を飲むのに同伴料など払っていたら元も子もない。カネは価値あるものと交換してこそマルクス主義者であり、サービスなど無形に近いものに使ってしまうと、その従事者もまた生産に従事できず労働力を失うのだ。

 俺の生まれが商店なので、近所も商店街で主業は商売であり、マルクス主義なんてものとは対極的かもしれない。それで俺がカネでもモノを作っているというと、親父も頑張って納品書や領収書を大量に作って小銭をかき集める仕事をしてくれている。

 そこでな、俺のしているこのウェブライター、ネット執筆みたいなものが生産に値するかというと、認められた額としては少額でとてもそれだけで食えるものではない。ただまあ、他にも収入はあり、むしろ貯金すら出来るくらいだ。

 その意味では私有財産を認めると、やがてモノも行き渡り資金も余って、日用品や消費財に食料生産の従事者だけが働かなければいけない時代に突入するかもしれない。

 それでも食料を何とかしないといけないのは人類誕生以前から生き物ってそうだし、そこまでカネもモノも行き渡ったとすると、出発点である所得倍増計画のさらに倍という目標はその時点では完遂された事になるだろう。

 俺の課題は部屋にためた本やゲーム機をまだ全部遊びつくして読みつくせない事であり、そんなものが無くても実はテレビで充分ではないかとさえ思っているが、過去に打ち立てた思想に則って生きたこの6年ほどは本当に色々な実りがあったと思う。

 


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