「悔い改めよ」「隣人を愛せよ」聖書の言葉

俺が子供だった頃は「男に二言はない」という言説がまかり通っていた。女性蔑視からの開放を訴えるフェミニストというのはいるが、実は女性は弱いようで「女性に暴力は振るってはいけない」というルールに守られて論戦において最初は発言せずに稟議が進んで決着が見えてくると強い方に付き負けている方に「男に二言はない」を突きつけて不利な立場に追い込んだ状態で事を運ぶという戦略を取る女性がいた。

しかし、聖書の言葉には「悔い改めよ」とある。これは口喧嘩や何かで言ったことが間違いであると分かっても強情や偏屈にそれに従うという考え方を捨て、非を認め悔いてから考えを改めることで道がひらけてくるという教えである。

そして、少し別の話になるが「隣人を愛せよ」ともある。隣人とは自分の近くにいる人のことで、決して奥さんを置いておいて隣の家の奥さんを愛して不倫をしなさいという意味ではない。冗談はそんだけにして、遠くの人を思うより自分の身近な存在を大切にして日常を豊かにすることが幸福への道であるという教えだと解釈してる。

このことを合わせると、身近な人間とつまらない口論を繰り返し引っ込みがつかなくなり強情や偏屈で和を乱すというのは聖書の教えからは程遠く悔い改める方が良い。

まあ、聖書の教えが真実であるとか絶対であるということはないが、進んだ倫理観が記されていることは間違いない。

近頃のテーマは「ロープレ対格闘ゲーム」(バーサス)だが、これって本当に対立軸があって論戦になる問題なのかって考えてる。しかし、事がふたつあると両方を受け入れて「ロープレ&格闘ゲーム」(アンド)を理解できる人と、事をふたつに分けてバーサスに考えてしまう人もいる。

俺が何を悔いているかというと。昔の俺は「勝って威張る」が基本だった。そして負け惜しみを何度も聞くうちに、自分が勝っているはずなのに「いじめられている」という自意識を持ち始めた。多数決的に負けたものが結託して論理の通らない意見でも正当化して通してしまう。

もちろん、論理的な筋の通った意見でも何に根ざしているかという思想の出発点から疑うことでひっくり返せることもある。しかし、それには多くの時間がかかる。政府があって教育が敷かれてたくさんの教科書が印刷され配布され子供の頃からそれを読んで育っていく中で形成された考え方を他者から学んだ考え方であるにも関わらず「自分の考え方」だと信じている人はたくさんいる。

とかく俺は25年間くらいストリートファイターIIを遊んで勝って威張って「それがどうした」という人間に「格闘ゲームで勝つのは偉いことなんだぞ」という持論を展開し、賛同者を集め、自分で「ちょっと待てよ」と思い始めてからもゲームセンターやゲーム会社などその意見を持ち上げることで利を得る団体が論理を後押しして「格闘ゲームで勝つのは偉い」がプロ野球に準じて本当になってしまった。

これは悔いていることのひとつだ。それで「ロープレは無駄な作業でキャラのレベルという数バイトのデータを変化させてそれで自分が強いと思いこんでいるバカのためのゲーム」でもはや論理的に負けている勢力なのだが、多数決を取ったらまだ格闘ゲームとロープレはいい勝負であり、ここでどちらに付くかは考えどころだ。

そこで至った結論は「ロープレ対格闘ゲーム」(バーサス)ではなく「ロープレ&格闘ゲーム」(アンド)なんじゃないのって事なんだ。

ロープレが勝っても格闘ゲームが勝っても、ゲームがどちらかひとつだけになって負けた方のゲームが世の中から無くなっるってわけじゃない。そこらへんから、自分が何を実現したくてどういう方向に意見を引っ張っていきたいかというと、何でも対立軸に捉えて優劣とか大小を比較するんではなく、もっと多くのパラメータで正しい形や正しい姿を捉えようとする取り組み方なんだよね。勝ち負けを目的とすると多くのパラメータを微分してどちらが多いか少ないかに単純化されてしまう。

だけど、勝っても負けても残るものなら自分や身近な人間に豊かさを与えてくれるものに気付いて、豊かな時間を過ごしたいって。

ドラクエの街の音楽好きやわー」って言ってる人に「お前単純作業ゲーのドラクエですら戦闘でレベル上げずに街で音楽聴いてんのかよクッソ弱いw」と言っても多分仕方ないんですよね。