「過程の平等」という概念は未だ語られていないと思うんだ

政治の舵取りは機会の平等と結果の平等で左右に別れ議論されるが、相続等で所得に差が生まれ教育費用が受験と就職活動という機会の不平等を生んでいるし、いざ就職してみると生産能力があっても政治的権力の無い弱いものに仕事をさせて給料は同じだけもらう偏った結果の平等がある。

つまりこれらが全て不平等に感じるのは機会の平等と結果の平等の均衡が取れるポイントとして過程の平等が無くてはならないんじゃないかと。

機会は実質的に受験と就活で、結果は実質的に給料の大小で語られる。しかし、年収の大小に関わりなくツイッターで相談して食事に同じファミマの肉まんをふたつ買う、みたいな動きが最近の俺の周りで起こり始めている。

役割が違う以上は過程は必ず不平等になるので、農作物や工業製品の生産に従事していることが機会と結果の公平性の基準になっていて、政治とは無関係な人のモラルで高い給料をもらった人が詐欺にあって働いた人が泣きを見て騙した人がうまい飯を食うというようなことに対して起こってしまってからとか起こる前にとか、法でどう縛ってもやり口が変わるだけの話で、雇用主と労働者に平等のものさしをどう持ち込むかというと、これもやはりそこで働くしか無いという貧富の差が機会も結果も全く平等性のない不満が生まれる原因である。

つまり、ある程度に政治に関心がありモノの価値がちゃんと分かる人にならないとありとあらゆる不平等は転がっていて、受験と就職という競争に勝つものがさらに高い給料の使い方が上手くてさらなる不平等を生んでいっている。実は正しい知識を身につけると給料という結果で少ない立場に置かれても家賃や物価などの差でさらにもう一歩踏み込んだ結果の平等に近づけることは出来る。

しかし、人が給料を持って何を買うかというところに政治的介入があるとそれは不自由だろう。何を買うのかは当人の自由というのも機会の平等であるから。

結果も機会も社会のいたるところで絡み合っているものだから、それらをみな平等にするというのは人間の生き方を管理するような格好になっていまう。もちろん、俺が提唱しようとしている過程の平等なんてものは人間のロボット化に等しい。

だが、VR体験などで視聴覚体験の共有化は出来るんじゃないかと。テレビだって広い意味ではそうだ。まだ落とし所は見つからないけど、結局政治で作られるのはルールでしかなく、プレイヤーはルールの意図をくんでバランスをとるか利己的にバランスを崩して得をするか、そのへんの資質の違いがいちばんの不平等感の原因だと思うんだ。