「悪法も法」を唱えたソクラテスはただの哲学者

いやね、ただただ対戦ゲームしてると年下のが強いんですよ。

物心ついたころから家にファミコンがあった世代ってか、その表現が共感を呼ぶのはファミコンのなかった上の世代なのでブログとか読む人を考えると多分同じように生まれたときからゲームは当たり前のようにある世界で話を進めたほうがいいんだろうけど。

それで中学くらいで周りの大人を負かして夢中になって同じようなゲームに熱中していくんですけど、ちょっとルールを変えられると今度は年下のほうがそのルールを起点に世界を理解し始めるから、頭が柔らかくないと追い越されるんですよね。

だいたい、ゲーセンでもゲームプログラム以外のルールを持ち込もうとする論争は弁の立つ年上が勝てなくなって持ち込むものなんですよね。だけどゲームをどう遊ぶかは勝手だろって論も一定の支持はあって。まあ、外出自粛の要請下でパチスロ並ぶのが自由や人権かと言うと健康や人命が守られてこその自由でしょ、という風に段階があるから、楽しむためのゲームでしょというところから出発すると楽しみをプレイヤー間で干渉し合う多人数プレイは自分の楽しみのために他者に何かを強要するのではなく楽しくなくなったほうがその世界をあきらめて譲りましょうって落とし所になると思うんですけどね。MMORPGにまでゲーム外ルールを持ち込んで、それを破ったらどうするかというと戦争になるときがあって、戦争で勝てる算段があるからルールを持ちかけるっていう暗黙の力関係はあるんですよね。

そういう意味で「悪法も法」を唱えたソクラテスはあくまで哲学者で、法律家としては悪法なら改める方向に向かうべきだと考えたところからこの記事を書き始めたんですけど、法が王政を維持するために出発していたら、裁きは剣であり、命あっての物種だと言う意味でソクラテスの時代には悪法も法という考え方も正しかったのかも知れない。いやギリシャがどういう都市だったのかとか詳しい人にそこはバトンタッチですけど。

ソクラテスは結局文句をたれて島流しにされるから哲学に無力を感じるんですよね。法の精神が王や神の権威を守るためにあるのなら悪法というのは市民にとってのそれでしかなく、反対に民主主義が成立してからの悪法というのは票田政策と一体であったりするわけだから、やはり法というのは規定する時に保守と革新で対立がある今の議会の形がマトモな落とし所で、それを改める精度とか背景を論理的に無矛盾に考えられる人物というのは倫理と政治と法の歴史をくまなく学ばなくては始まらないという意味で、その出発点として教えられていることが「悪法も法」であることから法律家たるもの善意ではなく法という規律に全く善悪によるブレを持ち込まない冷徹さを持つべきという心構えが語られているというのが正しいかも知れない。

そうして元のゲームに戻ると、ゲーム外ルールを持ち込もうとした者が物理的な力を使うなら弱いものはそれなりにネットに書き込んで多数派工作をするというのも筋として分かる。暴力を使われたら警察が呼べるし、ネットで掲示板を見ると画面に字が出ているだけで無視されるなら個人を類推できるように特徴をほのめかして嫌がらせをして精神を疲弊させる。

それら全てはゲームの台の支配権を得るためなんだよな。これでも若い頃は関西のゲーセンでどこに行っても台を占領するだけのゲームの腕があったんだけどな。俺は楽しかった。ただそれが面白くないという人もいて、今は遠い昔のこと。出来ればルールの規定とか面白くないことを考える側に回るよりは決まっているルールを飲んでその上で勝ちまくれるプレイヤーでありたかった。てか、やめた原因って俺が国家試験通ってユニオンシステムに勤務して3年経ったところで3歳下の人がカプコンに入ってから自分たちに有利なルール作りをして退職金もらって自分たちの作ったゲームでまた遊ぶようになった、みたいな事情があるんだけど。

そんなルールを飲んでなまじっかなやりこみで負かせるはずもなく。それでも予選取って東京まで大会に行ったんだよな。その怨恨がカプコンの株を買うという行動の動機の根っこにあって、好きだから買うのではなくルールを変えるために株主権利を行使したいみたいのは敵対的買収TOBに当たるので証券会社とかからも良い顔はされなかった。

そういうことも含めて全ては法を巡ってのやりとり。ゲームがしたかった。今もゲーム会社で格闘ゲーム作っている昔の友達はいるけど、売れずに苦しんでいるのを知りながら俺は買ってやれない。良いお客さんとして楽しみを得るにはそれ相応の対価がいるわけで、儲けるためのゲーム作りが子守りみたいな面倒さを孕んでいるから、モンハンに投資しても結局モンハン世界の中で厄介な遊び方をするプレイヤーにやきもきするという結果になったよな。今。


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