取って取られて斉藤和義

俺はネットで音楽配信をした時に斉藤和義さんの曲を無許可で歌ったことがある。

それと関係あるかどうかは分からないが、ギターを始めてから温めていた曲がサビだけ出来ていて、部屋でひとりで歌っていたら、数日後にテレビからその歌が流れて驚いた。資生堂のCM曲で斉藤和義作詞作曲となっている「ずっと好きだった」で、CMではそのまんまなんだけど、レコードではイントロからAメロが付いていた。

著作権侵害と素人からベテランの盗作でどちらがどういう罪かと厳密には考えていない。ただ、証拠がないと立証できないわけだから、その件に関しては泣き寝入りであった。

最近では俺も何か歌を歌ったらウェブカメラで録画録音して、それをネットに上げることもある。そうして、また自分がネットに上げた動画からテレビでそれが流れてくる不思議な体験をしたのだが、声で多分斉藤和義だなとなって、ネットで検索したら動画の説明に「2週間前」と出ていて、自分がアップした日付を見ると2月9日の朝8時。斉藤和義サイドの公式発表は映像付きで2月10日であった。

ただし、ずっと好きだったの時は丸々歌詞とメロディが同じだったわけだが、今回は歌も違うしそもそもが坂本九の「上を向いて歩こう」のカバーである。何が同じかと言うとサビへの持って行き方のギターの弾き方が同じなのだ。

細かすぎて同じだと主張するのがおこがましいのかも知れないが、ギター1本だけで歌う弾き語りの世界で、フォークのようなスリーフィンガーが弾き語りの基本形で、それに対して本来ロックでギターと歌を別の人に分けるストラミングをひとりでやっちゃう、それにファンキーなリズムを乗っけて踊れるリズムでギターを弾くとか、新しいネタを求めて色々やって来て出尽くしたと思った中で、本来ベースで引くベースラインをギターの6弦(6本の弦のうち手に持っていちばん内側の6本目の弦のことで6本のうちで音程が最も低い)だけでリズムを刻みながら歌と重ねるやり方が自分なりに新しかったわけだが、これを発表してすぐにそれはフィンガーファイブの演奏で先例があることが指摘された。探せば先例があるわけだから俺が新しわけでも無いのだろうが、今の時代にそれをしている人はいないし出したのが2月9日だからな。

何に悩んでいるかと言うと、俺に金銭的利益が全く無いことである。今回は証拠を残せたがそもそも著作権表示できていない。特許回避のごとく上手に作り変えられてしまったわけだ。

閑話休題、先日のSixTONESの新曲「僕が僕じゃないみたいだ」がラルクアンシエルのパクリではないかと批判が飛んでいたが、歌詞も曲も何にもパクっていないけどギターのエフェクターの効かせ方と高音の鳴らし方が異様に似ている。料理の味を取るようなものだろう。

しかしラルクアンシエルとて元々全然違う音楽性のバンドだったのにLUNASEAが流行ってGLAYでその手法を真似て「ビジュアル系」という括りが起こり始めた時にレコード会社の意向か何かでそういう楽曲が作られて、ファンとしたら音楽性も全然違うんだけど素人目には化粧をしてキラキラした音のギターで高い裏声で歌う同じような奴等だったわけだ。

話を戻すと、そんなこんなが揉めるのはそれによってレコードの売上などの金銭的利害が絡むからだ。音楽をしているというだけならば、誰かがしていることを上手いと思って真似るとか、先生が手本を見せて真似させても弟子が下手な時にそれをビデオ登場以前は先生が弟子の弾き方を真似て客観視させるというのは普通に取られた手法であった。

件の動画以降に普段スリーフィンガーで弾いている若い人が6弦を演奏に組み込むようになって裏声も使っているのを見て「おお、上手くなった!」と思って良かったこともあれば、散々書いた斉藤和義の件は利害が絡まないなら何も問題のない話なのである。

まあ、俺が実損を被ったわけではない。将来売れるかも知れない芽を摘み取られたことで予測利益が減ったみたいな切り口では現行法では裁かれない。それがあらゆる業界にある先行者利益というやつである。

そしてこうして俺が書いているブログというやつでも、紙媒体のライターに随分と先行者利益を持っていかれたし、オウンドメディアとして頑張っているとネタを頂けることが出てきた時に、見込み収益をめちゃめちゃ高く見積もったデマ記事で随分とバッシングを受けた。まあ、金銭的な実益以上に何かの文章が俺の名義で広く認知される可能性が高まるというような著作権法とかで裁けないデジタル世界の先行者利益を俺が持ったことに対する反撃と捉えている。

そうなると、話は金銭的な実損得ではなく精神的な勝ち負け感に終始する。著作人格権というのは本来的に金銭的な実損得よりも「それがその人である」ということに着目した倫理だ。

そういう意味ではあのギタープレイが斉藤和義さん名義になっちゃたのはどちらかというと歌手よりもバックバンドの手柄なのかも知れないが、普通バックバンドの手柄ってリスナーにしたら歌手の手柄やし、突き詰めるほどに追求し難い損得の問題になる。損を主張してええやろか。

 

 

鉄腕DASHを見ていたらテレビカメラに虹がキレイに収まっていて

その昔に持っていたMDコンポで目覚まし時計の代わりに朝タイマーしていたミスチルの植物の茎が音符の形になっている"it's the beautiful world"だったかな、そんなアルバム思い出した。

二車線の歩道を跨ぐように架かる虹を

自分のものにしようとしてカメラ向けた

光ってて大きくて透けてる三色の虹に

ピントが上手く合わずにやがて虹は消えた

胸を揺さぶる憧れや理想は

やっと手にしたその瞬間に姿を消すんだ

この歌詞の絶妙なところは昔のカメラで虹が上手く撮れないところと憧れたものが現実となった時に何か思っていたのと違うところが掛かっていることなんだけど、最近カメラが良くなったことでこの歌詞世界の示す意味もまた失われるのかなと思ったんだ。

ただ、カメラとネット配信の普及によって「テレビに出るとはどういうことか」みたいな漠然とした憧れに対してお金があれば自撮りで配信できる社会の憧れに対するピントの合い方もまた精密になってきていて、例えとして伝わらなくなる以上に「やっと手にした瞬間にその姿を消す」という現象自体もどこか掴みどころが無いものに変容するんだろうな。

それでもこの歌を思い出すのは歌の続きが「捨ててきた夢の続きを」何度でも諦めないという精神性がついにカメラに虹が収まったことで昇華されたものとなったからだ。昔の歌が未来予想というか決意を伴っていて、15年くらいかな、もっとかな。そうして実現したんだな。

そのミスチルが今は"the song of prize"の中で「僕だって小さな歯車」と歌っているところと、読売テレビアナウンサーの辛坊治郎さんが自身の番組の中で「いつ中国から狙われてもおかしくない」という冗談がそれで済んでいることに何かこう大物アーテストとて小物に収めてしまう社会の圧力は抗えないものであるという諦観を示しているよな。

もっと前には桜井は「知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら誰だってそう僕だってそうなんだ」と叫んでいたしその後には「閉ざされたドアの向こうに新しい何かが待っていてきっときっとって僕を動かすんだ」と歌っていたよな。何のMVかは忘れたけどアメリカのグランドキャニオンみたいなとこで撮影された壮大な世界観を表現したこともある。それが最初に歯車を歌ったのは「くるみ」だったような。

まあ俺としてもライブハウスとかに通う前にラジカセで室内で音楽を楽しんでからウォークマンに夢中になってライブに実際に行くとみんなライト振ったり拳上げたりするのに付き合うの正直しんどい歳になった。一緒に歌うと近所の観客にうるさいってぼやく人もいたりで、テレビでライブ見るほうが停止してメシ食ったり用を足したり出来るので都合が良いわけだが。

そのへんも「友人との約束をキャンセルして部屋でナイターを見よう」と見事に歌詞世界に収まっているわけだ。このへんの歌詞世界の表現な。高校の時に文化祭の準備でラジカセ掛けてると「物憂げな6月の雨に打たれてとかミスチルって歌詞いいよな」とか語りあったものだ。

しかし年寄りには腐す人も多い。特に阿久悠先生なんかは「最近の歌は若者が俺の気持ちを分かれよって歌っている。もっと聴いた人が幸せな気持ちになるような歌を書いて欲しい」と仰っていて、なるほどな部分もありつつ、俺はそういう歌によって出来ている部分はある。

まあそんな若者の思索すべて含めて「ガキじゃあるまいし自分に言い聞かすけどまた答え探してしまう」から「今僕のいる場所が探してたものと違っても間違いじゃないきっと答えはひとつじゃない」に歪んでいくのもな。

そう考えていくとそのへんに答えていっているのはミスチル自身ではなく後発の若者バンドだと思うのよね。露骨に影響を受けて、継いでいる部分と受け答えになっている部分はあると思う。そういう意味ではミリオンセラーの独り占めではなく色々のバンドがあって互いに語り合っている方が健全だよな。そうして少しずつ小さく丸まったのだろう。

長文になった気もするが俺の30年分だと考えたら短いので一気に読んでもらえたら嬉しい。

THE F1RST TAKE たっぷり視聴

最近の日曜日は仮面ライダーを見ないでシューイチ流してMacで動画見てる。

昨年あたりに始まったSONY BRAVIAのライブ番組"THE F1RST TAKE"をたっぷり見た。

 

昨晩はモンハンクロスを久々に遊んでHR5からHR7に1日で2ランクアップ。発売日に買った割に途中で飽きて放っていたのが昨日で合計80時間超えになった。

MMORPGはケチなので遊んでなくて置いていても課金されるのが嫌なタイプだったけど、モンハンだと野良で気軽にネットゲー感覚で遊べる。

ただ対人関係は少々のネットリテラシーと我慢が必要。400万本とか売れているので色々な人がいる。田舎者から見て東京が怖いところであるようにネットも怖いところだし、対面のゲーセン対戦と違ってネットゲーもリテラシーはあるところにはあって、その界隈はチャットを使ったりネットに看板張ったりして口うるさくマナーを語るのだが、そういうの無視すると言うよりゲーム画面には「他人を不快にさせる発言には気をつけましょう」って長文の中にちらっと書いてる程度で守られていないことに対して「自分は守っているのに」と思うと多分馴染めない。

てかゲームには豊富なアクションがあって敬語とか気を使っていても、ゲームもりもりやりたい人にはモンスターへの対処が下手な方がイライラさせたりもする。だからコミュが出来てネットで情報交換して落ち合って仲間同士で遊ぶこともあるだろうけど、そこに部屋のカギの掛け方など知らないと「知らないやつが来てウザい」みたいなこともあるわけで。

そうして、ゲーム世界と長く付き合っている人には言葉以外に無数のマナーがあって、問題がある人は実は即時にブロックされるわけではなく、4人部屋なのでその人がぼっちの時に友達と2~3人で入って芝居のように何が駄目なのかゲーム画面を3人称視点にして見せる。

 

まあ、そういうことに慣れてから普段気に留めていないミュージシャンのライブ動画を見ていると、気の所為レベルの無数の言語外のコミュニケーションを図っている感じがした。

 

昨晩モンハン終わってから寝る前にネットに繋ぐと連れの家で鍋をしている時に懐かしいゲーム「ヴァンパイアセイヴァー」を部屋で遊んで配信しているのを20分ほど一緒に見たことだ。まあ、ゲーセンで一緒にゲームしてたけど生活圏も趣味圏も違うので、ゲーム配信は見るけど話しかけたりプライベートに踏み込んだりはしない。

 

この距離感がつまり田舎者の都会は怖いでありネットは怖いであり、だけど相手も踏み込んでこないことは隠し事の多い都会人同士の優しさなのだろうなと近頃では思うんだ。


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