病気になってから改めて考える健康

「病前の生活がしたい」というのと「健康になりたい」は必ずしも一致しない。

俺は病気になってから楽器の練習を始めたんだ。

どちらかというと、俺は受験生だからと高校まで家で大事にされてきた。

そして受験失敗で親は一度落胆したが、バイトを見つけて時給が結構良かった。

バイトして堅実に貯金して、その姿に家族も結構満足げであった。

そして専門学校に進学して、親はまた通信簿を気にしだす。

学生時代に遊びまくってバイトでの貯金は底をついた。

最後は母親から小遣いをせびるようになった。

卒業後、ゲーム会社に就職したが中小零細で作りたいものと違うと辞めてしまった。

どうせ嫌々仕事をするならと給料の高い会社を選んだ。

その様を周りの人は見ていた。親は資産家で家賃や株で回っていて、自営業は仮の姿だったようだが、その時はまだ知らなかった。

資産家なのに息子さんを会社勤めさせて親が楽しているというのが周囲の視線で、息子さんに頭を下げろという話で資金繰りが悪化したようだ。

ある日母親が泣きつくように俺に言った

「もうお金入ってこなくなってん。キョウスケ君家にお金入れてくれへんか」

「いくらいるんだ」

「全部よ。お給料全部」

「ハァ?」

それから親父も言った

「会社勤めなんてするならこの家から出ていけ!」

俺は売り言葉に買い言葉でそのまま会社のそばのマンションで一人暮らしを始めた。

三日後くらいに母親が蒸発したらしいが、親父は俺のところに来たとと思ったらしい。

大阪での暮らしも色々あったが、結果最後には精神病になって病院から実家に帰った。

病気になってから俺は時々健康とは何か考えるが、健康でも病前には戻りたくない。

つまり健康という言葉と回復後の素晴らしい暮らしを夢見ることが重なっている。

そうして、幻聴の治療としてMacで音楽をひたすら聴いているのが今なのだ。

楽家になりたいのか、リスナーになりたいのかの線引きが難しくなってきた。

楽器を練習するでなくヘッドホンで音楽を聴いているとまるで病前のようだ。

病前が健康だとして、夢に見た回復後の生活が叶わないとなるとため息が出る。

確かに自分で楽器をしてYouTubeで弾き語りミュージシャンと遊ぶのは楽しい。

だけど市販のレコードを聴くのはもっと心地よい。

病識

ギターの練習は1日5分10分でも上手くなると教本で読んだが2分くらいしかしない日もある。

ちゃんと時計を見て、最低でも5分は何かに取り組むように昨日から計り出した。

結果は案外早く出て7フレからの早弾きの練習にコードチェンジに加えミスチルのinnocent worldの弾き語りをしてからイントロギターをキーボードで弾いてみてギターにコピーした。

それから夕食の段取りが変わって空腹と睡眠不足からか持病の陽性症状が来る。右耳にその昔にお寺で麻雀をした時の住職の声が命令のように聞こえてくるのだ。

今までに幾度となくGoogleで病気のことを見た。どこかのクリニックの患者の家族のための病気の説明で、どこを見ても同じようなことが描かれている。それは医書をネットで取り寄せて、そこに書かれている病気の研究結果と結局文言が同じで先進国から情報を取り寄せて同じお薬を対症療法で出しているに過ぎず、お医者さんといっても高校までは受験勉強をして医学部に通ってから臨床と理論を座学で学び、国家試験を通ってその職に就いている。昨今の情報化社会で試験という手続きが役職のルールとして残ってはいるが同じ情報にたどり着く。

ただ、声の正体を幻聴であり脳の異常であるとする西洋医学の立場に対し「坊主の念である」と考えて、一度はその念を送っている坊主の本体を探して止めるとか殺すということも考えたことはあるが、日本の仏教信仰を支えているのは教育水準が上がる前の時代のお年寄りであるし、現代では宗教より科学だろう。科学を盲信するわけではないが、薬物治療で改善というか体感に変化はあったわけだし、坊主を見つけて危害を加えると犯罪になる。そして恐らく病気の発症は不信心に対する人罰としての科学的な病理に基づく拷問のようなものだと考える。

幻聴以前に俺は右耳が難聴で、ヘッドホンでよく音楽を聴いてきた。病気になる前に会社で仕事が単調な時に物静けさの中でよく音楽を妄想した。音楽で紛らわすと幻聴はほぼ無くなる。

この音楽を聴いている時の快楽と、欠乏状態からの不安が無音の時の幻聴のトリガな気がする。そうと気付いた時からテレビ24時間つけっぱなしでこの3年ほどを過ごしてきたが、いい加減に時間の使い方がそれで良いのかと思い始め、テレビを消して本を読んだり音楽を聴いたりしてその合間に無音の時に症状が出た。

そこで再び音楽をヘッドホンで聴き、特に右耳に注力して聞いていた。健常者と聴こえ方が違うのだろうかということも不安になる。だから、Macサウンド設定で左右のヘッドホンの出力を調整して、右のほうがやや音が大きくなるように調整すると、4:6くらいで落ち着いた。左耳が下がっている分だけ全体のボリュームを少し上げて、今その状態で今までよく聞いた音楽を改めて聞きなおしながらブログを書いている。

そうしていると、今まで無視出来ていた音楽のヘッドホンの後ろで鳴っているテレビの音を雑音として耳が拾い始めている。音楽家を目指すにしても既に成っているとしても右耳の難聴はハンデだと思っていたが、少なくとも聴くに当たってボリューム調整で何も問題なくなるのだから、演奏に関しても耳と脳の関係にしても、機械で十分調整可能なはずだ。

高校の時に聾学校のドキュメンタリーを見て障害者の発話がぎこちなく感じた。耳が悪いだけで決して知的障害ではないものの、発育過程で耳から入る情報が欠落している分だけ知的成長が遅いのではないかと友人に話すと「それは差別だと思う。が、確かに耳から情報が入らないのはハンデだな」という答えが返ってきて、勉強不足を棚に上げ自分は片耳なので障害者認定されないがハンデを背負っているのではないかという不安が心に湧き上がった。

不安やストレスは全て病気の原因になる。らしい。とかく、全ての不安とストレスを取り除けば特に病気であることなど忘れて生活できている時もあるので、苦しんだ時に上手く凌ぐことを考えれば良い。右耳ヘッドホンのボリュームアップは何だか脳をクリアにしてくれている感じがする。

今日のカルドセプトDS(己の心に正面から向かい合って)

トレカでは強そうなカードが意外と弱く逆も然り。

しかし強いカードを集めて勝ってもどこか虚しい。

それは「強そう」というのがパックを開封して引いた時の当たり感であって、ゲームはそのカードを楽しむ手続きに過ぎないからだと解釈した。

そしてどんなに極めてもデッキやサイコロの目で負けることがあるなら、いっそ勝率を求めてデータで強さを誇示するではなく、好きなカードでひとつの勝負に勝つことこそ心を満たすのではないかと考えた。

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単純計算で「大きい方が強い」を意識して、それに対して「カードの効果やコストが」とか言ってると、色々説明する分だけ1回負けてしまうだけでもかっこ悪い。極めても完勝できないのなら好きなカードに望みをかけて、それで勝てば良い。

結果、運も味方につけて2周目ロカの3人戦で見事勝利を収めた。ブック全部引き切る前に勝ったので入れたけど引かなかったカードもあるけれど。

もともと、完勝を目指しても何がどう極まったのか50枚中の数枚を遊びに感じることもある。それなら、好きなカードだ。俺はデカイのが好きで遊び始めの頃にトレカ仲間と遊んだが、その仲間は決してそれを「単純だ」と馬鹿にせず「らしいね、いいね」と互いにキャラを分け合った。

だから、勝ちたいからと人のお株を奪ってしまうようなことをせず、自分の得意技とか好きを守った上で、ゲームの攻略に長けたところでそれで自分に嘘がなく素直に楽しめるのだ。

全ての探求はゲームの全容を解き明かすことではなく、ゲームと出会ってからの自分の心の変化を読み解く旅となり、そして俺は五年の歳月をかけて心が満たされた今こそようやくゲームに勝ったのだろう。


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