マインドフルネス座禅ブログを書いてみた

 諸般の事情で本棚を組み替えて読み切れていないかもと思う怪しい本を読み進めると、東洋医学の本に自分の病状とピッタリ一致する「禅病」なる病気の記述があった。かかった人が医者に見放され仙人の元で呼吸法の実践をしたら治ったとあるので、それを読み進めながら5秒吸って2秒止めて5秒吐く5・2・5のカウントと何回吸って吐いたかという回数のカウントを並行して、14回くらいまで数えて分からなくなり読み終えた。俄然読書意欲が回復している事に気付いた。

 そうしてふと目の前のテレビのラグビー中継の画面の中に文字が幾つあるか数えてみたくなり、30文字ほど数えたら画面が切り替わり、パソコンの文字を数えて数えきったら画数を数えてみて、20文字ほどで国英数合わせて100画ほどでそれ以上数えることを苦痛に感じてあきらめてやめてしまった。

 そうすると子供の頃におばあちゃんとお風呂で100まで数えて「熱い」と言っても「百かぞえるまで辛抱し!」とあがらせてもらえなかったことを不意に思い出した。

 100は俺にとってもう数えなくてよい限度の数であり、それが掛け算を暗算で二桁同士くらいまでしか出来ない原因かもしれず、ほこりをかぶったソロバンを出してみて小学校の算数が同和地域で簡単すぎただけで他校から奈良学園に来た子は中一時点でもっと計算できたかもしれないと思ったりする。

 余談だがテレビゲームをするということをコンピュータ将棋の自己対局学習と比較してみると、自分の脳みそを視覚とコントローラでテレビとゲーム機とつないで、反復対戦することで頭の回路は賢くなるのかという新しい論点が見つかった。反射神経や手続き的な部分で極めたとは言えないが、それを訓練するのも少し馬鹿げていると思う。

 数えるだけでも100でへばる自分であることは分かった。それが勉強量の粘り具合とかにも相関があることも分かる。1日のブログの長さとかにも関係ある。数というか量で圧倒されて負けることだって幾らでもあるだろう。

 数えるのが100で止まる割に、数万という文字を読書1冊で読んで画数にするともっとすごい数え上げになる。サラリーマン時代から新書を読むことで読書週間が付いた。それが文字から起こされた想像として記憶になって自分の基礎になっている。考え方を変える本として、オカルトの如何わしさを疑いながら読むのが楽しいのだ。

 そうして、庭でタバコを吸いながら小道を何度も往復して歩くことで家に居ながら運動量を確保しているのだが、この歩数を1000歩くらい数えてみた。風呂場でのおばあちゃんとの数えは「いち、にい、さん、し」の読み上げであったが、頭にアラビア数字を想像しながら数え上げる訓練などもして、59から60などの繰り上がりが一瞬それ以外の数え上げよりイメージングが遅いことなども分かったし、100より大きくなると100の位を覚えておいて下二桁だけ数えていたのを読み上げの数え上げだと「ひゃくにじゅうはち、ひゃくにじゅうきゅう」と前半部の繰り返しが長いのが嫌だが頭にアラビア数字を描くともっと早く行けるのだけど、どうしても+1の数え上げで1000というのがどれくらいの数なのかというイメージは掴めない。

 長さで考えると1メートルが1000ミリなわけだから1ミリと1メートルを比べる工業的とか建築的な習慣のあるなしはあるけどそういう尺での比較ではなく頭にアラビア数字を想像する1000以上の数え上げは昨晩万くらいまで行ってみて、テレビのリモコンを見たら10万1112に10ch11ch12chのボタンを連番に見てみたりなどした。一瞬1万1112と間違えたが、すぐに「あっ、10万」となった。

 まあ、数え上げには時間がかかるので、ひとつづつ行くと100は今までの時間的な我慢の限界値でもあって、1000まで我慢できるようにするというのもひとつ。

 数学の証明は数に関しては数え上げと演算結果が等価であることが証明になるけど、無限大や虚数などの概念は定理であって飲むしかないってのがつまらない。そこから広がる世界はあれ、コンピュータでは実験不可な分野もあるわけで、情報科学も当面は将棋ソフトという課題に応用できるかということで袋小路に思えたこともあったけど、また新しい発想というかアイデアレベルで実験してみたいことなども出てきた。

 それと併せて化学について物質がその元素で出来ているという証明はどこが根っこになっているか、国語の起こりが仏典伝来でサンスクリット語まで掘り下げるともうないという風に国語を煮詰めたので、化学もそこまで煮詰めたいと思って悩んでいた。

 答えは高校の教科書や学参にはなく、中学入学でもらった理科時点で

 1:水に溶けた

 2:なめてみるとしょっぱかった

 3:顕微鏡で見たら透明の立方体の結晶であった

 以上から、対象の物質は食塩であると想像できる。それは既知の物質と性質が同じであるから。

 という文言が中学理科の化学以前の物質の見分け方の最初のページであった。

 そうするとオカルト的な東洋医学の本で見つけた禅病も病態や症状から俺の患っている精神病とそっくりなので観察的に同じ病気である可能性もあり、座禅で治ったという記述を信じられるかということはまた別問題ではあるが、座禅法にも色々あって、だが反対に病態を描いて特殊な座禅法を読ませることで「そのポーズを取っている奴はその病気のバカ」というイタズラの書物の可能性も全く否定できないわけでもないが、それが西洋医学で薬物治療であってもお薬手帳を見たお医者さんや薬剤師さんが「あー、なるほど」と思う病気であり、一般的に不治とされていることには客観性はある。

 その昔に大学に哲学科があった頃には哲学科の何割かは自殺してしまったという叙述もどこかで見たことがあり、また科学技術の先端の一角を担う未来学園都市つくばでも自殺者は多いと聞く。まあ曰く禅病。かかってしまうのは懐疑的で哲学的でどうやったら素直な子供の頃の心とつながって人間味が出るのか分からない、という病気だろう。

 100の壁はもっと辛抱強く数え上げることで破れたとは思うが、いったい病気は幾つ数えれば治るのだろうか。数を中心とした理系思考になれば同じ病気の友達が出来て話が合うようになってまるで病気で孤独という雰囲気が観察されなくなるかもしれない。プログラマー界隈でも専門用語が飛び交う中で会話に混ざっていれば安心感もある。ただ、IT系から帰ってきた奈良の生家の周りでは誰とも話が合わず病院送りだ。

 寝る前にバーチャファイター4をクリアしたが、話を合わすのは実は既に辛い。

 ゲームを終えてから書棚のゲーム攻略本をペラペラと眺めて「中パンチ」とかではなくジャブとかストレートとかスピニングバックナックルとか所謂ワンボタンの「通常技」にも全て名前が振られていてバーチャファイターも例外ではないので、「肘」とか「P」ではなく全部技名で語るくらいになったら何か変わるだろうかとも考えた。

 人と話せないのはややボキャ貧なのだろう。「ライトニングストレートから大ダウン」とか言っていればゲーマーの輪で話せる相手もいるだろう。「3PPPから8K」とか言わないと通じない人だっているんだが。

 重度の精神病は隔離病棟で俺は入院経験もあるが、死人として親父が自宅療養に引き取ったのか院内で問題があって退院するしかなかったか、それでも担当医の先生は毎年変わるなか「まだ生きている」という先生もいて、それを信じて生きることとする。

 まあ、バーチャファイターでもKOした後にダウン攻撃を入れる「死体蹴り」をしていいかという議論は俺は分からないのだが、画面のキャラに感情移入するやさしさがあるからアツくなるのであって、対人対戦ではなくコンピュータと対戦してオモロイかという議論を先に回路と脳を画面とコントローラでつないで賢くなるかって論点をちらっと書いたと思うけど、もう俺と話して人間味が無いって判断を下す人が病人として扱ってくれるわけで、コンピュータ将棋と将棋して腹を立てて機械を壊してしまう人もいるように姉や姪がきつく当たってくることがあったのも同じことだと理解した。


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