デジタルの固さに押し込まれた不器用さだな

カプエス2をプレイしたが、何かモヤモヤした感情がつきまとう。

決まるようになったオリコンの不安定要素が心を不安にする。もっとこう、練習を積んでいけば盤石で安心感のある心境に到れるものだと想像していたので、何か違うことがもどかしい。

ギターの練習もそんなところが少しあるが、こちらは安心感があるんだよな。バッチリの演奏でなくとも「俺こんなもんだな」というダメな安心感と出来ることを見つめた安心感の半々な。

考えてみたら、ファミコン十字キーコントローラを親指でどう押そうがマリオでもゼビウスでも右に動くようにプログラムされている。プラスティックのキーの裏には電極のスイッチがあって、落ち込み具合とかは関係なしに電極が触れるか触れないかで信号になり、忙しいゲームに多動症候群みたいのが吸収されるというか、じっとできないけど、親指に集中したら正座でじっとしていても画面が忙しくて満たされていたというか。

その、どう押そうが同じように動くデジタルで、とかく早く操作するために乱暴になった部分がデジタルに吸収されるのが、今度は丁寧で繊細にやりたいと思ってもゲーム機はスイッチのオンオフしか見てくれないわけで、やはり自分が思っている丁寧とゲームの判定する丁寧の違いに歯がゆい思いをしていると言うか。

そのへんのことがギターだと全部音に反映されて、雑なら雑と聴く人には分かる。それならもっと丁寧にと思うと速度をゆるめることで丁寧に出来たりする。それがゲームだと速度は決まっているわけで。

ただ、それでもゲームするならゲームの世界の厳密なルールに自分を合わせるべきという信念が以前の自分にはあった。ゲームの世界で活躍する人はみんなそういうところがあるだろう。その信念というか根性というか、そういうものが近頃は無いんだ。テレビを見る時間も増えて、何もしなくても画面は動くというのに慣れてしまった。押さないと動かない世界の中で競い合うことにムキになれたあの頃よりゲームは下手になっている部分も賢くなった部分もあるだろうが、適度に他の方法で自己満足を得て逃げる。

「勝って何になる」という社会への反発がエネルギー源だったので、ゲームが社会に承認されたと感じると欲求はひとつは満たされたわけだ。其上で、勝ったら利があるという新しいルールのもとでの競争に負けている劣等感みたいなのが昔はなかったがが今は強烈に「ある」

俺の考え方も少しづつ組み変わっている。ゲーマー同士でゲーセンで競い合っていた頃に酒を飲んだひとりに「子供が出来たらゲーマーの英才教育をしたい」というものがいて、とても考えさせられた。俺は自分の失敗によって下層社会に落ちた身分からのパンクとしてゲームに打ち込んでいたので、子供が出来たら子供にはもうちょっとマトモな人生を送る自由を与えられたらとその時は思ったものだが、そいつはちゃんと結婚して子供を持った。

しかし俺の人生を振り返ると両親は「子供には自分のしたいことをしてほしい」という先進的な言葉を投げながら、実際的には塾に行かせて受験をさせているわけで、それは進学が自由を得るための条件であり、学がないとしたいことできることの幅が狭まりその結果として目の前のテレビゲームを自分のしたいことだと思いこんでいる状態が今である。

野球がしたいというと「そんなの冗談でしょ」と笑われ「ファミリーベーシックが欲しい」というと「そんなのあなたには出来ないわよ」と突っぱねられ、結局俺は俺がしたいことを親の満足の行く会社勤めで貯金を作ってから親元に帰って自分の所得で出来る範囲で出来ることしたいことを探して少しづつやっている。

しかしゲームを続けることに意義を見失い、習慣として少しは続けながら多くの時間はテレビの視聴に当てて、ブログを書き、ギターを弾き、野球のピッチングフォームを部屋で真似てみたり、ストレッチやヨガをしたり。子供のことにさせてもらえなかったことを小学生くらいに戻ったつもりで探しているんだ。

モラトリアムと言うには歳を食いすぎているが、学業でも趣味でも仕事でも、何か道を決めてそれにまつわることを掻き集めている人には何も敵わないかも知れないと気が遠くなる時がある。俺のブログがそんなに読まれないように、学業で脚光を浴びている人の演説が文字に起こされていたとして、それを読んでも途中で飽きて放ってしまう。

結局社会の底辺だと思うから突っ張ってゲームしてたけど、上皇様は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で国民に頭を下げる。うちの親父も鉛筆1本ノート1冊の注文でも頭を下げる。そして民主主義を掲げて戦う市民は毎日仕事に打ち込む。家でゲームをしたら誰にも威張れないけどゲーセンで遊ぶより100円玉が浮く。そうする内に野心のようなものが無くなる。

矛盾しているようで、実際の身分が高いものが頭を下げることで平穏に暮らしていて、頭を下げることで相手がふんぞり返るのが気に食わないというのは身分の低いものの虚栄心であるとすると、この国での人々の所作はどこか捩れている。

この「ねじれ」を自分なりに正しく見極めて、そういうものとは無縁のところで自己実現をはかりたいものだとどこかで思っている。現実のルールが複雑で混迷を極めるから、いくら複雑とはいえコンピュータロジックという定性的なものを研究するのに没頭してしまったのだ。


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