世の中意地の悪い人ばかりではない

 世の中意地の悪い人ばかりではない。そういう人もいる。この国語は難しく、すべての人が意地が悪いわけではなく優しい人もいるが、その比率は誰かの目から見て何割とか、客観的にわかるものでもなく、街には多くの意地悪い人がいて騙されて奪われて弱い者の集いになったところで放たれる言葉であって、少数の弱者の慰めの言葉なのだろう。優しい人ばかりでもない。「両方いる」ということは分かる。

 「優しさ」に見えるものがあったとして、それが都会では誰かを騙す甘い誘惑であることも多く、俺はそうと知らずに詐欺にあったり、自分が詐欺にあっているのに自分自身が詐欺師であるという噂を流されて縁談をふいにしてしまったこともある。

 だが、そんな自分の良いことだけを並べても信用などされないかもしれない。詐欺の自覚がないだけで、プログラマとして会社に外注で入って、先に誰かが作り込んだシステムのプログラムを読み込んで、数行の改変を加えるだけで数十万から百万円くらいの報酬をもらったこともある。これは確実に、先にシステムを作った人が計画的に法律や価格が変わった時のことを考えて改変しやすく上手く作ってあって、そういう風に後のことを見越してシステムを組む流儀を持った人がいるのは確かだが、俺がそこに呼ばれたということは先に作った誰かはもういないということなのだろう。リストラなのか、そもそもプログラマ業界がそうなのか。

 会社を渡り歩いてプログラムを組む外注業者のプログラムコードの交換というか引き継ぎで優しい人がいると思ったことは何度もあった。お笑い芸人から作家になった又吉直樹は「僕はよく本に助けられた」と語っていたが、俺は本に救いは求められなかったが、プログラムコードと対話している時に仕事の充実や作り手の優しさを見ていたのかもしれない。

 そして、先の人より良いものに書き換えることで自己満足や自尊心を高めた。職人気質なのだろうか。

 だが、そんな仕事に対する自己満足も今となっては過去のこと。近頃はテレビを見て過ごしている。働いて給料をもらって、それで本や映画を買うなら働かないでテレビを見ていたら良い。テレビの人はどうやって儲けているのだろうな。お金も払わず毎日見られたら儲からないんじゃないだろうか。まあ、俺はNHKをよく見るので受信料は払っているわけだが。

 昨晩も寝付けず追加の頓服薬を飲んで寝た。テレビも電気も消して寝たのは久しぶりだ。薬が残っているのか、起きても何かけだるい感じがあるのだが。朝からテレビを見ないでブログを書きたいと思うのは、今まで書いてきたことで伝わったことを改めたいという欲求があるから。ブログや本なんて残るものはもしかしたら書かない方が良いかもしれないとさえ思う。

 人の付き合いはその時々のもので、晩年に一冊を書き上げるのではなく、若い作家なんてものは信用してはいけない。人生半ばで端から見た人間関係だけで人生を推察したものなのだから。しかし没後に古書で作家一人を若年から晩年まで読み比べるくらいの読書好きなら、また話は違ってくるだろう。そのくらい付き合ったことはない。まだまだ読みかじりの勉強不足だ。

 作家像に詳しい人間からすると、俺は漫画ではなくブログ作家だが、藤子不二雄Aさんの晩年とまるっきり同じようなことになっているらしい。薬を飲んでギャンブルが止められず、それでも作家然とするのではなく街に溶け込み、出会った人を描く。寂しいのだろうな。

 寂しいと言っても話し相手が欲しいという気持ちはあまりない。日常会話なら家族である親父とするだけで足りていて、人との会話にはいつも落胆がつきまとう。贅沢なのだ。

 自分の周りの人間の「いけず」なところを許容して、それとどう付き合うか。いいところもある。俺にも人から見た良いところがあるのだろうか。ひとりだと分からなくなる。


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