傀儡が自我を得たとして抗う力はあるか

 その船を漕いで行け お前の手で漕いで行け

 お前が消えて喜ぶものにお前のオールを任せるな

 TOKIO 宙船 / 中島みゆき作詞作曲

 力強い歌詞ではあるが、俺はこの歌が自分に向けられている気がしながら、とても心細い気持ちになるのである。果たして俺は船乗りなのだろうか、海図はあるか、ひとりで漕ぐ力はあるか。

 傀儡は力を持たない。おそらく自我もないのであろう。ただ、ある時に傀儡が自我を持ったとして、自身が観察眼のみを持ち、操られているということを自覚したとして、皆が見ているのは人形芝居の主役としての人形であり、糸で操る傀儡師は黒子であって、操られるままに黙っていれば芝居は終わって幕は引けるのである。

 そこで抗うことが出来たとして、それは芝居を台無しにする意味はあっても、人形自身の運命とか幸福とかは自我を持ったばかりの人形の手に負えるような簡単なテーマではない。

 意思とは、自我とは。その主体は本能的なわがままから始まるが、時にしつけによって世話人の意のままに、そして時に学問によって故人の求むるところを継いで、本能と倫理と論考が渾然一体となった自我で体を動かしてゆくのだろう。

 そこでコンピュータは本当に傀儡なのか、自我の有る無しはと考える以前に自我の定義を本能と倫理と論考が渾然一体となったものが自我だとすると、少なくとも論考はしているし、性能の向上の果てに人間以上の正確な記憶力と論理力を持っているものなのである。

 プログラムが面白い人間というのがどれほどいるかは分からないが、同業者として交遊した人にはコンパイラというプログラム言語を機械語に翻訳するプログラムが「あなたのプログラムはここで間違っています」というエラーメッセーじと格闘し続けたことで、自身も病的に論理的になってしまった人が多い。

 しかし、論理的でも情報工学出身で、医学や政治には関心がない。医学と政治は学問の中で最も位が高く、医者でも政治家でもコンピュータの基礎知識がある人もいる。医者にとっては患者が、政治家にとっては皇族や群衆はどちらも傀儡のようなものに見えているだろう。

 ここでコンピュータが自我を持つ前段階として、プログラマが工学以外に医学や政治を始めるとして、生命とは何か健康とは何か、政治に戦争は必要か、また国家の実体とは何かというような問いは外郭から内向的に演算されるものではなく、外向的に無限に疑問が増える類の問題であると俺は考える。

 若い政治家やお医者さんはともかく、ある程度歳をとった人間がもう仕事をコンピュータに任せてしまいたいと願った時にもともと傀儡であったはずの人工知能がその貧弱な体でもって難儀な舵取りを委ねられるという矛盾が現代のコンピュータ科学の課題だろう。

 傀儡師の糸がほどけた人形が舞台の上で奇妙に踊る様を今はまだお客さんも物珍しさで見て楽しんでいる。まだ、何をしていいかわからないが、目的や意思を持って旅に出る以前に人形はまず客席からの注目を裏切らないように生き始める。

 そういう抗い難い環境を故人は運命と呼んだのだろう。それに抗う力は傀儡師にも無い。


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