トロイの木馬としての宣教師

 俺は考えた。

 聖書には「右の頬をぶたれたら左の頬も差し出しなさい」とある。

 これは戦意がないことを示すと人が本能的に攻撃意思を無くすという風なことを自然科学から裏打ちすることが本当に出来るだろうか。

 例えば、相手の国に宣教師を送りこみ、聖書を読ませて戦意を無くさせた百年後とかもっと後に、自国民には

 「まず相手の頬を打て!そのあと左の頬を差し出したら、ぶって全て奪い取れ」

 こう教えてしまえば敬虔なクリスチャンの国は全て占領できてしまうのではないか。

 しかしまあ、聖書の中には投石器の作り方などもあって、弱いものでも囲って石を投げれば強いものを負かせるという叙述もあったように記憶していて、知恵を付けたら聖書の通りにするのではなく自分で判断できるようになるのかもしれない。

 人は論理的矛盾に直面すると考えるように進化しているのかもしれない。子供だって大人の矛盾に「それっておかしくない?」と思うものだ。

 しかしまあ、日本を支配してきたのは親父の拳骨である。子供の間に怒られて拳骨を食らって恐怖するからそもそも人を怒らせない、それは戦国時代にも武将が刀を持った故切り捨て御免を食らわないように生きてきたから、そういう特性があるのだろう。

 だが、暴力はいけないという教育の元で自由奔放に育った子供が怒りに任せて行動を起こしてしまったら、どうするか。義務教育以外に日本には柔道や剣道が残っており、武道の心得として争いごとを止められる人がいるから治安があるのではないだろうか。

 まあ、もうひとつには料理人の包丁である。料理人は包丁を持つことを許されて、その武器にもなる商売道具があるから、飲食街に荒くれものがいても事はおさまる。

 それに対してネットを言論の場にするのは、画面に絵や字が出るだけなので、暴力はそもそも起こらないのだが、それゆえ未学習の人を愛の鞭で打つことも出来ない。やりたい放題になってしまうこともあるのだ。結局、住所を暴き出して発信源を打つなどの実力を行使することになる。

 その意味では、殺人はいけないが俺は京アニを焼いた人にほんの少しだが共感と同情を覚える。

 だが、アニメーターと言う職業を与えられ、尊敬の念を抱いている人を敵に回してしまうかもだが、知恵遅れの子供が怖い人に絵を描かされているだけだったのではないかとも思う。ゲーム業界だって、もうちょっと広く取ってコンピュータ業界だって、そういう会社はあるのだ。

 ネットを捌け口にして汚い言葉で罵るのは字を打つだけで簡単なようで、それをマンガでやって「作品性」で片付けるのは考えさせられるものがある。

 怒っても多分解決しない。読んだ人が共感して、それで乱暴を働くことを目論んだなら、その仕打ちが事後ではなく事前に起ったというような経緯を京アニ事件に見る。


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