先日から聖書をちょっとずつ読み直していたが、正月番組のテレビを消して最初の軌跡からキリストの処刑、復活まで一気に読んだ。
聖書にはマリアが処女のまま懐妊したという事であるので、それ以上の解釈を加えるとこの部分は俺の創作となるが「強姦されて子が出来たがヨセフという婚約者がいるのでその事を隠した」と考える方が合理的であり、そしてその子が預言者となる話の筋道として「強姦したのは権力争いで子を持てなかった王族で隠し子としてその生誕に合わせて使いのものに迎えさせた」とすると、ダビデの王が抹殺しようとすることと辻褄があって来る。
ただまあ、アニメ「千と千尋の神隠し」で描かれる湯屋が現代で言うとソープみたいな話でそんなに誰で絵も分かることを明け透けに言うなと思う人には思われるかもだが、そういう風に読み解いていくとユダがキリストを裏切るのもキリストがユダの正論を切り捨てたという伏線もちゃんとあるし、宗教と政治の結びつきとして人気宗教家になったキリストが為政者同士の駆け引きに勝ったとして、あまりに増えた信者にパンを分け与えるではなく働けと命じてガッカリされたのも日本共産党の衰退と同じことに見える。公平にと言って分けてもらえるうちは良いが、自分で働いて分け与えよとなると求心力は失われ元の王政で労働者であることと変わりないわけで。
この当たり前は年とか学年で言うとどのくらいで理解できるものなのか俺は知らないが、子供の頃に読んだ時はサッパリ分からないオカルトだと思って放ったし、大人になってからの2読目は暗喩を分からずこんなくだらない話を聖典とするのかと思った。
それで45歳にして分かってる人からは当たり前と切り捨てられるような今の解釈に至ったわけだが、もしかすると知らなかったことを相手に教わった時に「常識です」と返して知ったかぶるように、俺の解釈も俺がそう話したから「当たり前」と切り捨てられるだけであって、生まれの地ガラリヤと孤高の天才ガリレオ・ガリレイが音韻的に何となく似ている事とか、聖書を読み直す前に西洋史や英語にちょっとした仏語や独語はホントにかじっただけなんだけど、そんくらいやったから出来てくる世界を「当たり前」と切り捨てられるのはそれはそれでやっぱり心外なわけでして。
地理的にはローマ国とイスラエルあたりだから当時の地理と交通を考えるとトルコの辺りにも聖書ルートがあったはずだとか、そういう解釈を添えて創作ではなく史書的な解釈を直訳的ではなく暗喩的に描いたものとして読むとなると大学相当の知識がいると思う。
そうなったのは俺は高校の時にいちど大阪市立の下駄履き推薦を断って東京商船大学を受験しようとして、受験会場に3人しかおらず自宅に届いた手紙はとかく長ったらしかったが「ご縁が無かった」ということで、両親は「落ちたんやな?」と念を押しておれは「そういう意味だろう」としたが、廃校になったという経緯があり、バイトして専門学校を卒業してから自分の目指したものと会社業務の理想と現実の差があまりに大きく、書店に通って自分で勉強しようとした俺に大学教授か書店の仕業か導くように本がどんどん届けられて、ブログもあるので東京大学と文通状態で勉強したことは付け加えたい。
あるいは高校で真面目に勉強して大学で文系の勉強をした人からすると一般教養レベルの聖書の読み方かもしれんが、親に理系に捻じ曲げられて高卒で放り出されゲーセンバイトからコンピュータの専門学校に通った身としては勉強しなおして聖書の読み方が変わったことは新鮮な体験だったのだ。
ただ、聖書の読み方が変わっても、俺のもとに救世主が現れて道を啓いてくれるというのは心の持ちようで耐えるメンタルと理不尽な世界に対する理解が出来るというだけであって、今時の東大生が東大入って周りはスマホで遊んでて研究室のパソコンで何かをやらされながら「頭の良さなんて何の役に立つのだろう」と嘆いているという話を見て、その嘆きというか受験を体験したものにとっての大学に抱くイメージと、義務教育だけで社会に出ている人それぞれの大学へのイメージ、これは受験落第と合格と義務教育で三分した時に行って落胆した人、落ちて落胆した人は落胆の意味では同じだが、それでも俺が専門学校でパソコン関係の仕事があったように、国公立大学に受かった人は楽園にたどり着いたわけではないだろうけど公務員のような身分と仕事があるわけで、私学は落第と言っても一般企業は大卒という事で高卒よりちょっと給料がよく、高卒はそれはそれで諦念があり、中卒と言っても高校に行けなかったという悔いを持って独学で色々とやっている人もそれぞれ独特な仕事の知識を持っているわけだ。
まあ、そうさね、高校の先輩で勉強できる組には聖書も読んでおくべしとして「ものの本」のひとつとして、他には巌窟王なんかもすすめてくれたけど、俺はストリートファイターで遊んでてミスチルの「ビデオに撮ったショーシャンクの空に見てっからは」の歌詞が気になって25歳くらいで映画で同じような話を見た。
洋書のエッセンスは洋画とか洋ゲーや翻訳もので身に付いたものだから、先にも書いたけど「そんなの当たり前」と切り捨ててくる人はネットの論客であって、この人の多いネットで俺のフォロワーが少ないと言ってもアカウントすらない人が最大多数派の中で上を取って団体で攻撃戦と旗印を上げてきているというのは俺は俺で専門卒という特殊な経歴でも預言を示したキリストのように危険人物とみなされていると思ってみた。
私立大学でも学のない年配を大学の名前で威圧して何らかメシの種にしていて、それがネットの言論で売り上げを左右されるとなると敵愾心を抱くのも当然の理屈ではある。
その意味で基本に立ち返ると「はてなダイアリー」の頃はウェブで政治や宗教の話は規約違反だったと記憶している。けど、何でか分からずおっぱじめて物申して、その結果今でも多い少ないは別として読者は居てくれるわけで、だけど作家とファンみたいな勘違いをしたこともあるけど、いち「はてな市民」として対等たるべきだとも思う。
だから合っていると思う事には同意するし、間違っていると思った時には議論しようとしたけど、ネットの外に出るとニートみたいな今の俺とどこぞの会社の偉いさん(ぶてるだけかもだが、それの身バレも含めて攻撃対象とされる)らしいから、盤外戦となっていることも考えると、話は直接対決にならないようにまとめるべきかもです。