噂の面積

 噂というと「好事門を出でず悪事千里を走る」が思い浮かぶ。

 ただ、これは物事を距離的にしか見ていないようで、門というと囲いなわけで囲碁のように囲うとその中の石を取るように、嘘でも口裏を合わせて周りをすっかり囲んでしまうと本当かのようになる平城の考え方で、私学に行った俺からするとバカな考え方だと思ったのだが、奈良に帰ってくると噂話で自分がすっかり誤解を受けて皆が信じている事とギャップがあり、これは門の中と千里の道を比べたときに東大阪まで通った経験があって、大阪ではそうでも奈良や京都の碁盤上の街の中ではすっかり事情が違うという事で、面積だなぁと思うようになった。

 まあ噂というと人が主体だから面積と言うより人数が正しい尺度なのかもしれないが、そうすると人口密度の高いところでの噂と遠方との電話での話というのを比較すると遠くのひとりの友人に打ち明けたことと町中の噂というのにギャップがあることも理解できるし、ネットの性質を理解する上でも役に立ち、そうして学者になったが家族からはボンちゃんの扱いで遠くから段々と囲うように周知されて生き、家族が知るのは最後になるメカニズムみたいなのも理解できるようになったが、家族が知っても市中の人はまだまだ知らないわけで、地図のように天から見て人の密度や関係性から考えたら、それ普通は研究ってか選挙や広告で誰かがやってそうだけど、発表するのではなく秘密裏に使いそうなアイデアではあるよな。当たり前すぎて言及されないだけかもだが。

 その間に大阪での生活はもう20年も過去の話でそれから生まれた子供などは俺の自伝は生前の話になって歴史の本が信じられない子が一定数いるように、嘘ばかり言うやつなのだろうなとも思うわけで、距離と面積は考えたが時間を20年という尺度で考えられるようになったのは46年生きて半分以下だから出来ることであって、子供はもっと45分の授業を単位として生活していて時間感覚が短くて何かに没頭して時間を忘れたら次の日また次の日というスケジューリングだって難しいわけで。

 そういや俺だって子供の時ファミコンしてて「また明日やれば良いのに」なんて親に止められても分からなかったが、俺が何かをひとたび嘘だと思われると誤解が解けるまで照明や検証に付き合ってやろうなどとは思わず即刻嘘つき死刑になるのも分かる。

 そうすると奈良で市民を2000年も騙した宮家のロジックである噂のコントロールで見ると他の家族親族の方がはるかに長けているなぁとため息を漏らし、俺も死んだら墓くらいは残るのかもしれんが既にいなかったも同然の扱いで幽閉されている。

 まあ、今日はこの辺で考えるの疲れた。もうタバコと酒で体も弱っている。弱ることを受け入れたのは何故だろうな。もういらないとすら思ったことのある余命が案外長く、そちらの方が既に長いくらいの俺の人生なのだ。楽そうに見えるが内心はしんどい。それが傍から見て分からないというこのつらみよ。だがしんどそうに見えることを実際にやると今より楽かと考えると、やらり楽そうに見えるのは楽なのだろうかと。


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