ベルサイユ条約

 「有言実行」と人の言葉をいつまでも覚えて強要する人と言うのはいる。

 確かに政治において総理が発言責任を負い、閣僚以下はその発言や文面に基づいて命令や法規に従って動くわけで、その発言が朝令暮改であってはならないのは分かる。

 しかし、そういう問題は平安から鎌倉に江戸時代までくらいのもので、現代では国会で皆が守る法律そのものが書き換えられるわけだし、総理大臣にも任期があり役目を終えたらまた選挙で次を決めるのだ。だから、間違ってもとりあえず変わるとか終わるまで勤めあげたら良いだけなので、責任は有限となる。

 ただそのへん、コリアンタウンのゲームセンターで男が女にゲームやパチンコを「絶対勝ったる」とか言って、その約束を守るために大枚をはたいたり家に籠ってゲーム機に向かったりして、際限ない戦いが続いているというような事案と比較すると、その昔に西洋で絶対王制が敷かれ絶対を求めようとして、それから哲学が再興してギリシアローマには哲学者がいて絶対などと言う概念は無かったことが再び明かされたという歴史認識を持って欲しいと思うのだ。

 絶対の約束はやがて貴族が戦争に勝利した時に絶対に払えないような賠償請求をして国に借金を負わせ実質上の属国としようとしたことで、負けた方の国がそれでも借金を返しながら金を貯めて再武装して条約をあらためるべく次の戦争に突入するという今から考えたら馬鹿げて見えることが歴史に載っているが、今の世の中の戦争も事態が少々複雑化していて説明に上乗せが必要だが基本的に「仕返し」の色が強い。

 それで俺は負ける道を選ぶ日本の政治のやり方に学ぼうとしているのだが、風来のシレンのフェイの最終問題を何度やっても絶対に99回まで降りるとか、怒首領蜂大往生を絶対にノーミスノーボンバーで2周するとか、使っていないつもりの「絶対」をどこかで人の有言実行責任として使おうとしているのではないかと気付いたのだ。

 1回解けたら「面白かった」とか「つまらなかった」とか「簡単だった」とか「難しかったけど何度もやった」とか言って、ブックオフに売っちゃったで良いじゃないというとそれがゲーム制作者の目に触れて「一生懸命に作ったのに捨てられた!また次を作れと言うのか」みたいな話に飛び火したりもしているわけです。ネット開通後の交通事故みたいなもんだと俺は思っていて、それぞれの視点からの議論をすり合わせないといけないのかなと。


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