夢の続きが見たい

朝はコンビニのたまごパン、昼にマクドのダブチとポテトとコーラを食し雨が止んだ昼下がりにスーパーに買い物に行く。モーニングとヤンジャンを書店で買ってからヤクルトを見に行くと同じ棚にピルクル12個入りでヤクルト10個入りの半額だったのでそちらを買う。あと日本酒白鶴「まる」を2本。持ち帰るのに袋がはち切れそうで手に食い込んで重かった。

帰ってモーニングの封を切って風太郎不戦日記を読んで涙する。風太郎との出会いは高校の先輩が内定取り消しとなったゲームメーカーのさらに先輩とネットで内通してゲームで遊ぶのも良いが国語をもっと上手に使って昔の本とか読んでゲームの企画を打てるようにと教えるでなく背中を見せるようにパソコンゲームを趣味で作り続けた方の好きな作家だった。

本屋で立ち読みした以外は原作の忍者小説がマンガ化アニメ化パチスロ化されて台でアニメを見た程度である。そうしてどんな人となりだったのかと思った時には日記が漫画化されていた。

ただ、ひとつ共通項を見出すとすると新聞やラジオの出掛けの時代にそれが戦争の虚構を形作っていることをどこか見抜いて、生き残った先にどこか信じきれない葛藤を抱えて生きたその哲学感。俺の同級生の吉井くんはとりとめもない俺の話の聞き役になってくれたこともあるが、なにか自慢をすると「証拠がない」が口癖だった。しかし家に招いてディスクシステムザナックをクリアして見せたことを覚えているかと言うとそれは覚えているという。俺は吉井くんに見せただけだが吉井くんはそれから他の同級生にゲーセンのゲームをクリアして見せるようになった。たかだかゲームの上手い自慢でも雑誌のスコア写真やビデオでなく実物でクリアしてみせると説得力があるというのは俺が小学校時代に年上からパスワードやセーブデータを証拠として取り上げるいじめに抗うための術であったが、それを知った吉井くんは他の子に得意げにゲームを見せるようになった。

そして俺がアメリカに行った話や格闘ゲームやトレカで買った話やスコアを更新した話などを電話でするとまた証拠がないという。それに俺はビデオを撮ったり写真を撮ったりして証拠だと言うように変わったのだが、ついには信じないので俺の住む奈良まで帰ってこいというと嫌だと言った。それに俺は「君の疑念が現実に突きつけられた証拠までも疑ってしまっているだけで、その状態では二人の話というのは無意味化する」と言うと「なあ、俺はまだ胡蝶の夢すら分からない。現実って何なんやお前は何をどうして現実が現実って言えるんや」と返したので「俺はこう考える。あるいは夢かもしれない。しかし夢の中でも意思はあるし、ものをあると仮定してそれを確かめるべく生きるんや。あるいはそれは現実ではなく意のままの夢の世界で、また眠って夢の続きをみているだけかもしれないがな」「なるほどな、あると仮定するか」「それ以上俺の自慢を突きつけようとは思わないが、無いかあるかという懐疑は結局堂々巡りの無限ループにしかならないのだから、無いと仮定して突っぱねるのをやめてあると思って求めてみるのもいいかもしれないぞ」

そんな話を思い出していたら雨と汗で濡れたシャツが冷えてくしゃみが出て夏風邪を引いた感じがしたので、大正漢方胃腸薬とさっき買ってきたピルクルを飲み着替えをして晩飯には餃子とビールとチャーハンを食べた。今こうしてブログを書いている間に体の冷えはおさまった。

さらにカルドセプトをまた遊んだ。50枚中3枚ほどカードを入れ替えて、自己判断3ミスしたが勝てたので、10連勝でミスが全く無かった5年前のノリノリの頃より今のほうがミスを許容するブック作りが出来ていて多分強いんだろうと思う。少なくともブック構築は。

ただ、夢の続きが見たいと言いつつ完結してくれるマンガには感謝の念がある。いつまで取り続けないと行けないのだろうと先がむしろ不安であったが、終わってくれると感想でも書けるもの。現実感の解釈としては京極夏彦の「姑獲鳥の夏」に出てくる「過去から今まで生きてきたのではなく全ての過去の記憶を持って今生まれたばかりかもしれないぞ」みたいなのも頭の片隅にあるが、まだそういう感覚に陥ったことは無い。でもそういう見方もあるのだろう。


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