三者三様

俺は近頃ケチンボなところがある。

20代から30代は給料が右肩上がりで、欲しいものは何でも買った。

その様を見て貧乏な人から「目の前で欲しいものがお金で取られていく」

こう言われたのは、確かに買っているのだけれど梅田の百貨店やヨドバシカメラなどの高級商品群ではなく、大阪難波界隈、奈良三条あたりの割と安価な店で看板商品となっている展示品のようなものをポンと買っていた。だってそれしか欲しいものないんだもんという感じで。

今住んでいる大和郡山市はいちど貧民街みたいになってから、イオンモールの建設で再開発が行われ、新築マンションが建ち道路が整備され、そこで町屋としてしぶとく残っているところに親父と住んでいるのだが、街は少し活気付いていわゆる「よそ行き」で買い物や観光に来る人が増えている。そこに普段の食事を買いにスーパーにみすぼらしい格好で行くと泥棒扱いされたりしてしまう。

店からは泥棒扱いだが、買い物客から見ると何が欲しいか迷っているところをすっと通っていつもの欲しいものを買う俺は、つけてみると安価で質の良いものを教えてくれるガイドのようになっている。教えているわけではない。他のものがつけて盗み見て真似るのだ。

「何でもカネで買う」というのが非難に思えるのは金持ちの過ぎた自意識とか被害妄想とも言えるが、泥棒していないのにそう言われるのは名誉毀損になる。しかし実益実損で考えると、泥棒は丸儲けで大枚叩いてつまらないものを買うのは損だし、だいたいそういう買い物でいちど家中ガラクタまみれになって片付けるのに親戚に手伝ってもらうほどだった。

子供の頃は聖人君子になりたいと願っていて、誰からも不満の無い状態こそが至上であると考えていたけれど、そんな世界は空想上の理想郷であるだろう。「住む世界が違う」という言葉を聞くと学校で習った地球や世界地図をイメージして、世界はひとつだろうと反論する人がいる。だが俺は地図でしか知らない世界がたくさんあって、自分の視界や聴覚に触覚、味覚、嗅覚の五感を互いに全く干渉することのない人というのは住む世界としてはつながっていない。

引っ越したり旅したりで多くの人と関わっても、それらの波及効果が干渉する範囲にいない多くの通行人から見て、変わってきている町の感じ、風習、どこかで決められて俺だけ知らないルールがあるのかもしれない。

今は聖人君子は求めていない。ただ、すべての人の満足が求められないなら、孤独よりは仲間がいる方が心強いと思う。陣営と利害が分かれているので、周囲から身代わりヤギのつまはじきものにされる前に貧乏なら貧乏同士身を寄せ合って暮らす、金持ちなら誰かを従える、ではどっちつかずだったら、左につくか右につくか。

誰の不満もないというのは理想郷だと言ったが、左の理想には右の不満が出るし、右の現状には左の人が苦しんでいる。俺は何を目指して舵をとるべきか。


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