とりあえずアボガドロ数は飛ばして考えることとした

 コンピュータ将棋で歩の価値を100とした駒得の評価関数があるのだが。コンピュータ将棋の仕組みを知りたいと俺に問うた者にそこから話を始めると「ひゃくってなに?」「ひゃくがわからんか。100は他の駒との相関を求める基準値だから、歩を100として香車を200とするとか、1000でも良いし」「ならイチで良くないか」「1にすると整数倍でしか相対評価出来んから、少数とか使うことになるなら初めに100くらい取っておいた方が」「んー、コンピュータで計算するのにバイト数勿体なくないのか?」「それは勿体なくないが、何故かは話すと結構長くなるような。そこから知りたいなら自分でもうちょっと勉強してみてくれ」「むかつく!」というやりとりが過去にあった。ファミコンでも8ビットCPUなので演算1回を8ビットから減らしても最適化効果は無いと思うってのが俺の意見。

 そういう俺が化学でどうしても分からないのがアボガドロ数というやつで、モルという単位が6.02x10の23乗とかいうやつだ。どうやって数えたんだとか、どうやって計るのかみたいなことが教科書レベルでは書いていなくて、そこでいきなり詰まって気持ち悪いまま、44歳まで来た。同じように哲学もソクラテス弁証法で43歳くらいまで悩んだが、これは今では悩みは解消されている。コンピュータ将棋なら取り敢えず駒の得点を100として相対的に求めるというのがすんなり入ったのが反対に不思議で、数学で未知数を代数で表すのと同じ感覚で、自然数の100も未知定数のaもプログラムの中では俺の考えの中での扱いは同じなのだ。

 そう考えると、化学に昔から苦手意識があったのを克服しようと畑村洋一郎式勉強法「勉強の基本は丸暗記である」に習って、元素記号を頭文字の由来となった原子英名(正確には英語じゃないのも多分あるが)から辞書で引いて、化学式以前に自然由来のどんな鉱石から採取されるかとか、そういうことからノートに付けて覚え始めた。

 そうして段々と元素についての知識が深まると、取り敢えず水180mlで10モルで、そこを基準に質量や体積などを求めるのに代数的にモルが存在して、炭素12グラムで1molというのさえ丸暗記すれば、アボガドロ酢は恐らく忘れても多少の減点はあるにせよ大局に影響はないと考えるようになって、ぐるぐると悩むことなく化学の本をスラスラと読めるようになった。

 なんでなんでの勉強法では、結局は物理学とか原子論から電子や中性子などの理論の丸暗記でしかなく、懐疑的な割に図で見た原子の丸いイメージ以上の科学実験的な体験は得られていない。同じようにお釈迦様がどんなに偉かろうと、内向的に「なぜ」を問うても外界とのやりとりがないと闇の中で音を聞く程度の体験しか得られないような気がする。もちろんその闇の中で想像を巡らして広がる世界はあるだろうが、それは原体験ではなく追想だろう。

 お寺とか仏教に関して俺は信心と罰当たりなところが両方あって、お釈迦様は信じていても坊主は信用できないみたいな自分での線引きがあって、それがつまり科学は信じても学校の先生にたてつくのも同じことで、勉強といってもその段階ではせいぜいお経泥棒といったところで、上位の僧侶とか専門家の先生から口伝で学べるところを全部もらえていないわけで、口伝ではなく本を書く先生から本で教えてもらったことは沢山あるけれど、俺にとって学校生活はテレビゲームよりも空虚な時間だったような記憶がちょっとあるんだ。

 それで今はお釈迦様にも科学ってやつにも大好きだったテレビゲームにしても、なんかそればっかりじゃどうしても出口がないような論理体系みたいなもので、何か考える時に一旦そこに入って出口を得られるものこそが思考体系で、論理学だけでは堂々巡りで出られない袋小路がいくつかあるように考えてるんだ。化学のアボガドロ数も今の俺にとってそのひとつだ。無視して解決できることもあるが、宇宙がなぜあるかみたいな取り留めのない問題ではなく、アポロ号とかガガーリンみたいにアボガドロアボガドロであるということなのだろうなと思う。


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