ブログを続けることが良習慣か悩んだことはある

 あとギターもな。さらに言うと勉強までも妄信的に「続ければいいことある」と信じられないこともあった。反対にテレビを見ていてドラマや歌に心がほぐされることもあった。

 周りからヒントは来ていた。勉強しすぎて疲れている時にはコンピュータ将棋の機械学習が学習量を増やしすぎた「過学習」で弱くなる論文などがコンピュータ将棋開発車界隈からSNSに流れてきて「もしかして今の俺のこと?」とモヤッと思ったけど、そういうヒントにどれくらいピンと来て、自信が持てるかは愚直な勉強の賜物だと思うこともある。語彙量と連想。

 そして同級生とかライバルに「勉強してない」と言ってコッソリやって出し抜くとか、同じくらいのレベルに見られたくないから「俺やってます」と努力アピールするとか、人間関係が色々あって計算の上で発言によって相手を威嚇油断しようとするのではなく、本当に馬鹿なので愚直に分からないことや進めたことをこのブログに書き綴って、見つけて読んでくれた人がいることで、有線無線を問わず繋がっている端末の向こうにAIまたは賢い人がいて、指導をもらえたことは大きいと思う。

 やってないという時に隠し事をしないでやっていないことを伝えたら、恐く怒るスパルタとかではなく、まあまたもうちょっとやってみましょうかってのが続いてきて、そのために正直ブログであることは人間関係の損はあっても「聞くは一時の恥」みたいなもので、Googleエンジンには自分が知らないことを悟られても、調べて読むクセをつけたこともあって。

 その中で何でも調べると今度は自分で考えるのが面倒になって「教えてGoogle先生」でとりとめもない質問を検索ウインドウに投げてみて、そうすると哲学的な答えの出ない問いなのに答えが教材の形で売られていたり怪しい対面セミナに勧誘されたりして、勉強するのは学校のカリキュラムの範囲で教科書レベルから参考書にネットを使う前に国語辞典や英和辞典を先に引いて、とにかく語学的に学習したと思う。

 語学的に学習するというのは、生物の食物繊維でも、草木を植物と捉えて、繊維は衣服から連想して、セルロースとかカタカナ語には語彙的な意味は見出せないまま、草木に含まれる衣服の繊維みたいなものだな、という風に基本的な単語を拡張して学んだということ。

 もともと、それで分かるのが数学と物理だけだったわけで。数とモノとチカラ。化学や生物は図説の図鑑や参考書を増やして、目で絵や写真を見ることで理解が進んだけど、巻末問題とかは絵を描く問題ではなく計算問題で、学んだことが問題解決にすぐにはつながらなかった。

 生物は計算問題は出ないから、あとは化学の計算問題をもうちょっと解けるようになると、もっと強くなるかもだけど、生活中の疑問とか、日々の課題解決に困ることがほとんどなくなって、それらが感謝すべき多くの人の助力ではなく勉強の賜物と言っちゃうと、ちょっと違うのかもなとは今反省している。

 勉強法とか、悩んで勉強法の本を買って試して得意分野が出来て就職してお給料もらってそれでさらに本を買って副業とか「いらんこと」を始めて退職して無駄金使えなくなって、後悔して進路から考え直して高校生活をもう1回やるくらいの勢いで事に臨んで小中からもおさらいの範囲を増やす中で、本当にそのままでは知り得なかった色々のことを学べたと思う。読書で。

 んで読書というと写経とか活版印刷の時代には文字主体だったけど、漫画でも読書量が多いとそれなりにモノを知る助けになっているだろうし、俺が思ういい本は近頃ではカラーで図版の多い本だとも思うけど、自分のブログが活字ベースというのは職務怠慢の可能性もある。

 ただ、文字主体の通信が既に時代遅れだとしても、現代語訳で伝わるように書く能力はよくなったと自画自賛したい。今日も書いてやったぜハビット!


🄫1999-2023 id:karmen