ノブリスオブリージュの和約は意外なところに

 ガンダムの脚本家である富野由悠季さんがノブリスオブリージュについて語ってるのを読んだのはもう記憶を遡って随分前の事で5年以上は経つかなと思うのですが。

 ふと、プロ野球阪神優勝のもうちょっと前、高校野球の慶応優勝があったことを思い出し、そういえば慶応義塾大学って難しい漢字の並んだ良く分からない名前だなと思い出したのであります。

 だけど自分も漢文の簡単な心得があり「慶応」とか「慶応義塾大学」でひとつの学校を指す語としてではなく、塾なわけだから「慶応義」の塾なわけで、大学とか付属高校なんてのは学校制度が一律になって付いた語であるわけで、慶(よし)に応じる義と考えるとこれちょっと飛躍はあるけど高い身分に応じた勤めノブリスオブリージュそのものの訳語であって、まさに身分相応に勝って見せた100年越しの快挙だと思ったのです。

 そりゃ、今でこそ何でもカネで買える時代、慶応がカネ持ってて練習場も宿舎もコーチもトレーナーも声援も何でも高けりゃ総額がすごくてかかったカネの総和で見ればカネかけて勝ったみたいな数値での単純比較で貧民から妬みや嫉みの声も届きましょうが、そもそも高い学というのはカネでは買えないのは昔から学問に王道なしとされているもので、高い身分でも勉強も野球の稽古もやるのは生徒自身というわけですから、名門は名門だなぁとあらためて思うわけです。

 不思議なのです。どうしてそうやって同じ学び舎で集まることで競って高みを目指せるものかと。俺は親に奈良学園という私学に通わせてもらったけど、学校にゲームボーイを持ち込み学食代をごまかして帰りにゲーセンに寄るような子供でした。

 そりゃまあ、俺のいた頃で創立十五周年、慶応のような名門と比べてみるのも烏滸がましいと思われるかもしれませんが、自分が学ぶ意志さえ持ってみれば、先生の言う事が分からなくても、同級生や先輩に教えてくれるものは何人もいたし、与えられた教科書だってあらためて見ると普通科高校の中でもちょっとは高尚に書かれた本だったろうと思うわけです。

 無かったのはまさに慶応義の「応義」の部分。中学受験は通っていたわけで、入学成績としては慶ではあったはずです。義を持って勤め励むこと。忘れないよう自戒を込めて。

 まあ漢文の成績はマシな方だったと思っているけど、家にあるお仏壇のお経もまだ意味分かんないのよね。仮名が振ってあるから音読は出来るんだけど、漢字の仮名ってまさに意味を悟る前に口から出させるための呪文みたいなもので、やまとことばで「かな」表現で初めて国語たる意味を持つもので、漢文そのものをどう読むか。もちろん蘭学の方が優れていて英文を学ぶべきとする方向が強いのも分かるけど、慶応義の三文字で「頑張ろう!」と思うにはまず「自分を慶(よし)と思っている」「それに応じた義を守らんとする責任感がある」「そして義とは何かということを間違わず分かっている」という三つの要素があって「そんなのサボった方が楽じゃん」と思えてしまえる方がラクをするための知能という意味では賢いことになってしまう。

 その理由は一ツ橋を出たウェブライターが「頭とはラクをするためにあるものなんだよっ!」と強弁していて、俺はそれを読んでから全ての頑張りは勉強しているようで反対に読まされた文言の呪いのようなものだったのではないかとも思い始めた。

 このへん、富野由悠季御代くらいがガンダムのアニメを見ている子供に横文字でノブリスオブリージュと教えると辞書を引いて「なるほどそうか」と頑張らされてしまうという老獪の呪術がそれとして成立しているのであって、一万円札が福沢諭吉の時代に学問ノススメを読んで「慶応義塾フムフムなるほど」となって頑張る呪術に取り込まれる時代はそろそろ新札発行で終わるのだろうなとも思うわけです。

 そこまで言うと俺が中ほどに書いた「イマドキの慶応ボーイがまた野球を頑張った」という結果に不思議を感じたことも分かっていただけるかと。

 まあ、俺の場合は義のためというよりかは漢文を解読できないことに恥を感じることがあるんですよね。こんなに日本中に堂々と分かりやすく字で示されている様々のヒントが何とも「難しい漢字使うなぁ」程度の解読力でもってして気付けなかった恥というか。

 この国の多くの人が黙って守っている「きまりごと」の種が何処にあって何故なのかってのをもっと掘り下げて、それが改竄出来れば俺もゆくゆく呪法使いと思うのですが。むしろ読めないほうが自由という可能性だってあるけど、それも疑ってみる。

 例えるなら駐車禁止マークが分からない人が路駐して警察がシール貼ったりレッカー移動されるなんてのは読めない者からすると魔法のような理不尽なもので、立ち入り禁止の看板をくぐり抜けて入ってみたらただの工事中だったりするわけだけど、そういう境界を自由に往来して、そして法は己で守るものか監査の元で守ったように振舞うものかというと、どちらかというと俺は前者なのよね。清く正しいわけでもなく「やっちまって見つかったらどうしよう」ってドジでビビりな部分があるわけ。

 だけど反対に上手くやってのけたときは「何でアイツは良くて俺らがやったら捕まるねん!」みたいに不平を訴えるようなものもいて、それは警察には見つかってないけど市民の目はあったみたいなことと考えるとそれなりに腑に落ちるわけで。

 その意味では道徳と法律には若干のブレがあって、特例的に「やっていい」をたくさん知って厚かましくなって行くとダメ人間なわけで。

 そりゃ上手になればズルいとも思わせずにスルスル行けるものだろうという高みというか器用で賢いってところを目指すのに学問というと積めば積むほどどんくさく鈍っていくような感覚もまたあって。それでは目標とは違うわけで、勘の鈍いものが後から思い起こして騙されたと思うような文言でもスラスラ言ってその場から離れてしまうような話術もまた備えれば強そうだけど、とっ捕まえて活字のテロップを振って市民に裁かれるみたいなシチュエーションもまた日常のひと幕でもあるわけです。

 まあそうなって逸れた横道を正すと、この「守るべきは何か」がまさに義なわけです。正義とか義務なら分かるけど義の一文字で示されるものとはとなってくると、帰って分からなくなる。現代ではそれを司るのは法だけど、法を守る心とでも言うんかな。

 その法律が国会議員にコロコロ変えられては義とは何かもコロコロ変わりそうで、それでもブレない信念なんてものが理想として実存するか、みたいな。

 その意味でも義の一文字で示すところが軸よね。今の自分にあるとすると学ぶ意志くらいはあって、学び続ければ見えて来るかは自信はある時ない時だよね。

 慶応義イコールノブリスオブリージュを書こうと思った時には勢いはあった。

 まあ、自分を良いと思って守るものが義なら、ずるいのを承知でする背徳が悪であり、悪いことしないと生きて行けない弱さがあるなら、せめて自分は強いのだから守る側でいようとする、くらいの心掛けなのかなぁとまとめてみるわけです。

 その意味では親鸞聖人の「悪人正機」なんてのは悪を許すわけで真っ向勝負になるよね。ただ、善に全ての重りが乗ったら天秤は水平にならず、悪を悪として存在を認めるがゆえに重りが釣り合う正義がある、というのは俺なりの悪人正機の解釈なの。

 言い換えると商売しないと生きて行けない人間にとってのフェアトレードはモノの価値と生活費を足した対価で成立して、モノがそのものの絶対価値でしかトレードされないと持てるものが交換不成立とすれば流通が起こらなくなる恐れがあるわけです。

 善に天秤が振りきれた時に作るものが与えることに全て振るならもらえるものには理想郷かもだけど、作るものに全ての労苦がやってくる。その労苦を食べるもの皆で公平に分担しようって思想が俺の思う共産思想だけど、作物を平等に分けるように果たして労働を公平に分担することって出来ることなのかと。それを疑似的に対価に変えて賃金があるわけで。

 あるいはしんどい世の中ってのは悪の荷が重すぎるってことなのかもしれんですが。コロナウィルスや震災のような悪魔の罠か天罰かってところも、しんどいのは全て人罰悪政ってことでも無いとは思うんですよね。


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