平凡な表現「井の中の蛙」を疑ってみた

 国語を学習しなおすこととした。平安時代の平仮名の発明から、竹取物語が何故国語史において重要とされるのかなど、言葉の起こりから思考が如何に言語中心に出来ているか。理系進学においてはSI単位をはじめ数量でのモノの考え方や数を取り扱う数学、並びに近年ではコンピュータの利用も促進されているが、AIチャットに人が問うのに使う手段もまた言葉であるのだ。

 田舎で駄菓子屋ゲーセンのストリートファイター大会に勝ち上がり、国技館での前項大会を経験して自分の弱さを知り、帰って関西で修業したのち世界へ。

 こう書くと、何となく自分の人生の一部を切り取ってそのまま筋にしたような気分になり、読む人の感想として「井の中の蛙」だったのではないかと思われる。

 思わせるまでは考えて書いていない。素直に小中学校の教育を通して、地理的には東京都が日本一で大阪が二番目、だから奈良は田舎でそこにゲーセンがあって自分は新幹線に乗って東京に行って国技館で多くの人が集う所でゲームの試合をした。

 この体験自体に変わりは無いのだが、まず井の中の蛙というのも不思議な生き物で、田の中の蛙も井の中の蛙も自然の蛙に変わりは無いが、人の作ったものの中で生きているのである。どこまでも野山の続く自然の中に蛙がいるのではなく、平安の律令制に始まり鎌倉時代徳川幕府を経て日本政府となったところで都道府県に市町村が割り当てられ、それでウチの爺さんの財産とか親父の給料が決っていて、俺の小遣いで行ける範囲が奈良京都大阪くらいで、そして国技館でのゲーム大会は島を出て大海に臨むような自然に対峙する行為ではなく、資本主義社会の中で富を成したカプコン社がその権力を示すために両国国技館を貸し切りにしてスーパーファミコンストIIターボというゲームでこれだけの人を集められるということを世に示すものであったのだ。

 そこまで書いて翻って「井の中の蛙大海を知らず」を読むと、果たしてゲーム大会が大海であったかは疑わしいが、奈良の城下町から出る術として徒歩か電車か自転車しかない当時の俺がまさに「井の中の蛙」であったことは追認出来るかも知れない。

 ついでに言うと「お山の大将」なども真面目に考えるまでもなく強い権力を持ち領土が広いものが田舎武将をからかう挑発の言葉であることは疑う余地も無いが、当時の俺は決して大将とは言えず、ただ大和郡山の城下町とは言え商業地でもっと田舎から出てきているものが行き場なくゲーセンにたむろしているだけであって、決してその場を仕切っていたわけでもない。だから国技館に行くというのはカプコンから招待状が来て親に電車賃を出してもらっただけの事ではあるが、そういう下駄をはいて大会参加者という箔をつけてもらわないと、本当にゲーム機を持たない子供同士で100円玉を握りしめゲームでケンカしていたどうしようもない奴だったのである。

 そして多くの大企業は財閥か大名の氏族としての裏の顔を持ち、就職という儀礼がお家制度に入って氏族の一員になることとほぼ同義の時代もあった。近年ではそれに限らずとも、大家の身内となるか、俺の場合は国家試験に通って、吉田家の元で働くこととなったのである(ユニオンシステムって言えよ)

 とはいえ、会社を辞めて家に帰るとそこは親父のいる宮澤家なのだ。だが京都の一条に家があるわけでもなく、郡山城の城下町に家があるので、いっときは疎開説を疑ってみたけど、戦前から四代ほどもう今の立地とそう変わっておらず、宮家の姓を保ちつつも「丸三」という商号で物売りをしていた歴史もあるらしい。

 俺の爺さんはというと毎日酒を飲んでテレビを見たり昼寝をしていたりで、親父はクルマで配達の体を取ってドライブするのが趣味で放っておかれた俺はファミコンで遊んだりゲーセンに通ったりしながらどうにか学校で教わることくらいは学んだわけだが、よくよく考えなおすと、自分が何者かも良く分かっていないのだ。

 何気なく使っている言葉をもっと深堀して、文官として身を立てなおすことは出来るのか。いまどき文官なんて職業が成立するかは疑わしいが、皆がAIチャットにモノを尋ねる時代が来たなら、その学習対象足り得る日記ログを書き綴ってきたことに意味と誇りを感じられるのだ。

 だけど、俺のブログよりもっと言葉の根っこからちゃんとした先生に学ぼうねって気もする。俺が歳を食って死ぬまでの間に「ちゃんとした先生」に成れるのか。成るという表現は一人称的で、周りの人から評価を受けられるか客観的には家に籠ってパソコンのキーボードがカタカタと日々家の周りに小さく響くことを訝しく思われる存在ではあるが、そうではなくネット越しにこのブログの文章を読んだ人の心に何かを残せるか。


🄫1999-2023 id:karmen