哲学って古いものかも知れないけどね

 人の悩みの始まりは自我なんですよね。

 俺にも尽きない悩みがあって、家族関係が悪いからもし結婚して子供が出来ても、その嫁さんや子供が俺と付き合う中で親兄弟と同じように俺をバカにして来たら居づらいなぁと想像するわけです。母親や姉とは距離を取って生活しているけど、心の内では関係を修復したいとも思うけど、母親には言葉が通じなくて苦しんでいるし姉は自尊心が高くチョットした言葉の端々で俺の方が賢い発言をしたら腹を立ててありとあらゆる悪口で俺を制しようとするので、かといって殴ることも出来ず負けてやる道を取っているんです。そうすると姉もその子供である姪や甥も俺の事は「きょーすけ!」と飼い犬のように軽く扱うんです。甥がぜんまい仕掛けのおもちゃで遊んでいるとぜんまいが切れて動かなくなった時に俺のところに持ってきてニコニコしながらこちらを見つめるので、ぜんまいを巻いて渡してやるとまたそれを持って遊びに出て、切れたら戻ってくる。そんな関係でも居場所があると幸福は感じられるんです。

 それが子供が学校に通うようになって、言葉を覚えてからは一緒にいて不幸しか感じなくなったのです。こうして俺が書いている漢字もたくさんあるブログの文章を読めるなら、何も教えてあげずとも書いて残せばよい程度に思っていたのですが、子供が小学校に上がってすぐ字の読みも算数も幼稚園から教わっているような他の子に負けて姉が焦るようになったんですよね。算数を嫌がって1+1=2を「いちたすいちはに」と教えられ、それがどういうことか分からないという姪っ子は「ひとつふたつ」は数えられるんです。けど、ひとつふたつは分かっても「1」と「いち」が同じで「ひとつ」も同じで「ひとうとひとつでふたつってことだよ」と言っても指折り数えてひとつふたつとそれを一緒にごはんを食べていたショッピングモールの待合ベンチでご飯の順番が来るまで延々とやっていると他のお客さんが「バカだ」と言って、俺は激しい怒りが湧いたけど我慢していると子供はまだ「バカ」の意味が分からないから腹が立たないのだろうなとは思っても、そういうと俺が怒ることに気付いて「ばか!」と言い出したんです。

 まあ、こうして書き出す前は哲学についてそれも唯物論と唯心論について何か書こうと思っていたんです。だけど、小学校に比べて「高校の先生はラク」と一般的に教員間で言われているらしいです。どんな不良だろうが劣等生だろうが、高校というと義務教育ではないので退学処分も出来るし、反対に退学にはなりたくないと思って勉強するのが大多数で、高校まで来ている時点で言葉は通じるからラクなのだそう。

 だから物書きなんてのも漢字も仮名も読める教養人に何かを書き記して、傑作だろうと駄作だろうと読んでもらえるのは楽なんですよ。子供じみてて幼稚だという批判が飛んでくるのは少なくとも小学校の国語は出来る文章なんです。まあ、書き記している内容のうち、心理について幼いとかそういうことはあると思いますが。

 まあ、近頃は顔を合わすことも無くなりましたが、姪っ子ももう高校生らしいです。そうすると自分の結婚に子育てと考えると、今45歳で60歳で15歳と考えるともう現実的とは思えないってか、思い返すとウチは親が若い方で、小学校で言うと周りより良かったわけですが、進学校というと親がもっと歳で賢くお金持ちで晩婚で出来た子供であるケースもあったし、中学に入る前から塾で方程式を習っていたというような生徒もいました。

 そうすると我が子が出来たら姪よりももっと可愛がるか考えてみるんです。ブログなんてのは本当に書き散らかしているだけで、我が子ではない生徒を本気で教えてくれる熱意のある先生と出会えるか。どこか人任せにしてしまいたいと思っているのかもしれませんね。

 結局そういう「今ここにはない」悩みで満ちた自我が問題なのであれば、やっぱり書こう。俺は唯心論なわけです。俺の人生は俺という自我が感じて考えた世界であるわけです。対して唯物論って、目も前に今あるのはノートパソコンであり机であり部屋であり指に触れるのはキーボードで画面を見るというのは光であり受け取るのは目でありそこから伝達した脳でありその中では電気が脳細胞や感電器シナプスを通っているとすると、俺の思考だと思っているものも感電に過ぎないというような世界観を実験を通して書物で知り、だけどそうして得た知識も俺の記憶と経験であり俺という自我が見た夢であるとしたら。

 これはつまり入れ子になっているということだよな。自意識を自意識として認識しているか、モノとして認識しているかで理系進学は唯物論的であるべきなのだろう。

 そうすると結婚というのは愛や家庭を築くことではなく役所に書類を出すことだってのは物悲しい考えだけど正論で、そういう意味では結婚がしたいというよりは新しい家庭が欲しいというよりは姉の子が言葉を覚える前の幼い時に遊んでいるのをお守りしているときは楽しかったなぁ、という楽しい記憶に気を向ければ、今ここにはない幸せを夢見る心とそこにある「モノ」との関係の乖離がしんどいのかもしれない。


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