経済が世を支配する中で算数を教えないことは危険である

 愛の鞭というものが本当にあるのかと考えていた。

 姪が小学校に入った時に「いちたすいちはにってなんでなの?」と聞かれ、俺はそれは「きまりごとだからだよ」と答えると姪の母である姉が「そうじゃないの!きょうすけくん、すうがくでどうしょうめいされているかおしえてあげてほしいの!」と言った。数学で1+1=2であることは残念ながら証明できない。それは算数であって、アラビア数字を使った数が現代では万国共通で、四則演算はおおよそ決まり事と言って刺し使えなく、電子計算機なども古くからあるが計数機に印字されているものがデジタルという名の液晶数字に変わっただけで、回路を変えれば1+1を他の答えにすることも出来るだろうが、お金の勘定のために十進法が使われていると言うようなことを早口で話した。

 「いちたすいちはさんでもいいんだって!」多分姪の耳には俺の話は何も漢字にもならなくて、その部分だけが印象に残ったようだ。すぐさま俺は「でもそれは、がっこうではにときまっているんだよ」「なんで」「ためしにだれかにいちたすいちはときいてごらん、きっとだれにきいてもにとこたえる。ほかのひとがにというのにさんにするととてもこまったことになるんだよ」この会話で恐らく姪はドラゴンクエストの最後の呪文パルプンテのように「とてもこまったことになる」という部分に恐怖ではなく子供ながらにものすごい好奇心を持ってしまったのだと思われる。

 それで「もしがっこうにいってどうしてもいちたすいちがさんがいいとおもうなら、てすとにそうかいてせんせいにわたしてごらん。せんせいはきっとぺけをうってかえすとおもう」これが我ながら無責任だったと思う。怒ってしつけて嫌な人になるのを先生の仕事にしようと思ってそう言ってしまったのだ。

 姪がどうなったかその後は電卓を使うようになったらしいが、学校で本当に1+1=の後ろに3と書いて出してしまったら先生はどうするだろうと考えたときに「ひまわり学級」というものが俺が小学校の時にはあったなぁと思い出したのだ。

 まあ、自然と高学年になる間に3でもいいなんてことを言う俺の方がバカだと思うようになってくれたようで、それは良いのだが続けて姉が「成績が悪いのよ、何とかして」というので「漫画だな」ということで「鬼滅の刃」を買い与えたら無事に漢字を覚えたらしい。俺の持っている電子辞書を欲しがり、さらに下の子には小銭入れと俺の財布にあったありったけの小銭を入れて渡すことでコンビニでガリガリ君を買ってきて計算は教えなくても良くなった。

 1+1を3でも良いとするのは世の決まり事を守らなくても良いと教えるようなものなので、あるいはあの時にもっと頑なになって見せればどうだったろうと考える。

 高校に行ったとは聞いているので、いらぬ心配とは思うがあのままひまわり学級から高校中退とかにもしなっていたら、と考えると少し緊張してしまった。

 愛の鞭というものは本当にあるものなのか。飴と鞭を使い分けない教育など成立するのだろうかと考えると、俺は下の子には小銭とデコピンで上の子より楽にしつけてしまったなと思い返すのだ。まだ、これからどんな子になるかは分からない。そして親は姉なので、保護者責任もない。そんな心配をしなくても日本で育つということはどの家の子でもある程度は型枠にハマっていく仕組みだろうと思う。

 まあ、気にするというと四則演算は決まり事と書いたことが数が決まり事だから演算は数え上げと等価であることが証明になるといえば良かったのかもなぁとか反省している。簡単な話、俺も上手い事は教えられないのよ。小銭渡せば勝手に周りが教えてくれるって話でね。足りなくなったら自ずと分かるんですよ。それって認識甘いかな?


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