「あの世には何も持って行けない」を否定してみた

 虫歯になるといつも死を意識する。楽しい食事が痛みに変わり、鎮痛のアドレナリンが回るまで、心は痛みに囚われる。もちろん歯磨き粉を使った歯磨きで軽い虫歯は引くし、歯医者さんで治療してもらったことも何度もあるから、死ぬわけでもない。だが、もし歯医者さんが無かったら、そういう時代とか治療代も保険もない世界観だったら、飯を食う歯がなくなることが自然界では死を意識するタイミングなのかなと思う。

 死を意識すると、今までの良かったことを不意に思い出したりする。まあ大袈裟な話かもだが、楽しい思い出とそれらが全てやがて消失するような予感に憂いを感じるというか、そういう心境になるのだ。

 素直に歯医者さんに行けという話ではあるのだが、もう一歩だけ「死ねばすべては無くなるのか」ということをあらためて考えた。高校の時に爺さんが先だったが、俺は生きている。爺さんの世界は爺さんが死んで無くなったかもだが、俺が死んだら俺の世界は無くなるかもだが、それは夜に寝るのとはちょっと多分違う。夜に寝ると夢の世界に入るか新しい目覚めがあるだろう。だが朝目覚めるのと生まれて初めて意識を持つのがどれくらい違うかというと、記憶が全然違うだろう。人は記憶を持って生きている。

 そうすると、自分が死んでも誰かの記憶にはいるわけだし、肉体が滅ぶと精神というか自意識は無くなるが、精神ってただの自意識ではなく言語やモノを通じて発生しるものだと思うので、音楽CDとかビデオテープに恵まれた時代、かつては本がそうであったように、メディアとしての遺影がずっと残る時代において本人の肉体以外のビデオ面会みたいなものが生中継と遺影でどれほど違うか、墓石よりビデオの方が良いんじゃないかとも思うが、まあ元に戻すと自意識が消失するとして自意識主体では世界は感じられなくなるのであろうが、人が人たる所以というか他人とのコミュニケーションはメディアを残すことで死後も続くように思えるんだ。死後の世界というと天国とか地獄とかが自意識の行き先として語られるが、そうではなく自分が今いる世界が自分がいなくなって感じられなくなっても客観的には存続すると思うから子供を育てたり墓石を建てたりするのだろう。

 それとこれとは違うだろうと思われるかもだが、ゲームクリエイターになりたいなんとのは俺の人生はほとんど子供部屋で放ったらかしで本を読んだりゲームをしたりだったので、本を書いて残すかゲームカセットを残したいとか思ったのだろうな。

 まあでも家族にゲームカセットを残しても処分して現金になってギョーザやアイスクリームとかになるのであろうし、財産を生命維持活動の基本出る食事に使うのも正常な金銭感覚だし、子供を残すのではなくゲームカセットを残したいってちょっと異常で、でもSNSで「嫁さんが大事にしてたファミコンカセットを黙ってメルカリした」みたいな話は生活を考えると嫁様の方を持つのも分かるが、旦那方が何故にそんなものを集めているかというと俺も結構集めたことがあるので分かるつもりだ。

 ただまあ「拝金」を著したホリエモンが悟り系に行っちまったのは残念よな。ホリエモンの生死観は完全に現世のみが実存であるみたいな仏教系になった。ライブドア買収とかして欲が深かったホリエモンのほうがテレビに出て多くの人に知られたわけで、そうして集めたカネでゲームソフト集めまくり遊びまくりであの世に行ったら楽しかった遊びがソフトとしてカセットとして大量に後の人にアーカイブされるという理想な。


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