伝える使命はあるのか?(四次元について)

 んー。考えてる時は多分こんな顔してます。 

 まあ色々と書き散らかしていますが、五次元について触れたものの、自分の思考を人に伝えるのにどうしたらいいかという話。三次元CGの波は軸投射で線の連続で波の断面を表示しているけど、それを時間軸で動かした映像を作ったんだけど4年で見た人7人もしくは7回。


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 まあ、自分の感想としては話題にするほどのものでもないし、つまらないからだろうと思うんだ。

 てか「人の気持ちが分かる」て割と手軽に言う人いるんだけど、それは怒ったとか喜んだという感情をある程度分かりやすい表情として現出させるから機嫌が分かったくらいの事で、じゃあプログラマーの気持ちが分かるのなら分かった人は思い通りにプログラムが組めるのかというと、それは気持ちが分かるとは別次元で、一生懸命プログラムを組んでいる人の頑張る気持ちは分かるけど、技術的なところは気持ちじゃなくて論理なわけで。

 そこまで踏まえても、気持ちが分かるって自分の中にもうひとり相手の人格を作ってシミュレーションしているとしたら、直感だとしても人の脳って物質的には体外にある相手を脳でもってもうひとつ形作って考えているわけで凄まじいシミュレーションだと思うのよね。

 そのレベルで考えたら、映像的に表現できる四次元って当たり前なのよ。だいたい三次元に時間を加えて四次元とするなら、時間は視覚的には時計の針や数字だけど、過ぎてく時間は誰だって分かるわけで。それを世界時間と捉えてそこに歴史が立脚するわけだから、過去を想像するって意味では誰しもが現在の瞬間の三次元世界を過去や未来に拡張している。まあ、そうでない人もいるだろうけど、おぼろげでも想像してると思うんだ。

 ともするとコンピュータゲームなんてのはある時空の繰り返しであるわけで、はじめの時間が2024年4月6日9時00分であったとしても、たとえばドラクエならアレフガルドで勇者が王様に会いに行く日から始まる。スライムに負けるケースでも、鋼の剣を買うにしても、色々の人が同じドラクエをある時点では同じように、しかし各々がちょっと違った体験として経験する。子供がドラクエを遊んで、それを周りの大人や友達にうまく説明できなかったってのも漠然とした括りではあるけど、ある種の共通体験ではないかとさえ思う。

 哲学的には主観でもって世界を見たとき、自分の感覚が及ばない別世界を人は想像で作って思考している。創作なんてのはその最たるものだ。ただ、ひとりの想像を活字にして出版して別々の人が読むという体験を通して、別世界に対する共有体験は出来る。

 そうすると、三次元でも四次元でも、俺はそれを伝えんと何かを残した人からどうにかこうにか受け継いだけど、俺の四次元観が俺固有のものだと思う時があって、それをどうにか人と分かり合いたいとは思うんだけど、そこまで表現に夢中にならない事を顧みると「分かってくれなくていいや」というのが本音なのだろう。

 曰く「こどものもうそう」ゲームクリエイター米光さんの考え方だ。俺のドラクエ体験はドラクエ8が出る前から、ファミコンのドットを見ながら勇者が剣でモンスターに斬りかかる姿がおぼろげに妄想していただろうと振り返るんだ。

 それらは理路整然としてくると、他の人には見えないことが分かるから、伝達手段として映像があり、アニメーターやCGクリエイターとかまあ映画監督とかカメラマンみたいな仕事があるわけだ。そうすると、俺の伝えたい四次元観はCGで作った数学界での在り物の写像ではないという事も自明となって来る。

 ファミコンの映像でも、本の挿絵でも、十分だった。俺はそれが一枚の絵ではなくアニメーションになると「そこまで描くか」とややまどろっこしいと思う時もある。マンガの速読をする人もきっと似たような価値観だろう。もちろん、それでも絵を描いてアニメを作っている人に不敬になることを書いているのはお詫びしておく、悪いけどだ。

 字を打つのはワープロソフトというか、キーボードとエディタで便利になった時代だから、楽してこうして文字を打っている。だけど「見せたい世界」なんてものは俺に内在するものではなく、子供の頃から浴びるように見たアニメやゲームの映像なんだ。

 ボキャブラリーの貧困に苦しんでいた時期もあることを考えると、饒舌に流暢に語ってしまうようになったとは思うが、それでは相手に言葉としてほんの少しの煩い話としてしか伝わらない。「何か書けそうだ」と思って書き始めたが、今日も没原稿だなと思いながら、このまま投稿する。得意の「没原オチ」が芸風になってしまいそうだ。

 けど、それでも誰かに何かは伝わる。書かないよりは書いたほうが進むと思ってる。

 三次元の世界だと思っている人の身の回りの時間に対する気付きが四次元の扉である、みたいのが最初の落としどころだとは思う。そして運命の四次元に対するアンチテーゼとして可能性の五次元があるかもしれない、というのが哲学的には考えられるが、別の時間軸なんてものは思想の上にしか無い。そうすると運命にしても、初期値からはサッパリ想像できない混沌に向かって宇宙は進んでいると考えるよりは、ひとりの人間が生まれて外界から刺激を受けて思想を持って行動しているというような価値観の中でこそ自由を感じられるのではないか。

 まあ、たまにこういうこと考えるけど、だからどうというほどの話でもない、多分。

 若い人が哲学にハマってグルグル悩んでいるというのと同じ落としどころで腹が減ったりすると止める。タバコを吸っている人がどういう風に気持ち良くなっているかとか、酔っ払いが何を考えているかなんてのは大多数の人の興味の対象外なのと同じだ。


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