もっと簡単な落としどころ

 どうにも難しい学校で難儀して学んだせいで難しく考えてしまうのだが。

 抽象数学に虚数iがあることは認めても物理数学に虚数を使っている時点でおかしい、と案外と簡単に片付く話だったのである。物理なんだから実験証明があるはずで、存在しないiを数式に含めている時点でそれは物理学の対象たる現実と数がまだ結びついていないということ。

 そうすると俺が言う四次元とか五次元というのは大丈夫かとも自問するわけだが、例えば1次元でも無限遠の直線となるとまず扱えない。3次元でも有限閉空間ならコンピュータのメモリ上に展開できる。3次元を展開できるなら4次元でも閉空間でメモリ上に3次元をたくさん並べれば時空である4次元になるし、それをさらに並べれば5次元6次元と次数は上げていける。ただし、メモリ空間には限りがあるので、多次元を扱うとそれだけ単位面積というか辺の長さとか時間の長さ、5次元以上となると名前の無いものになるが、その何らかの長さは短くなる。

 将棋の利きでも3次元にするか悩んだが、駒ごとに手番と利きを生成して、2次元配列が駒の種類分あるというデータ構造にしているが、利き自体も64ビットをふたつ81マスの将棋盤に見立てて、9x9の二次元なわけだから、総合すると駒種類、手番、縦位置、横位置の小さな四次元を考えていることとなる。

 この考え方は物理学でいう4次元とは異なり、データベースの世界では案外と普通なのである。専門学校時代に1年で授業がやさしすぎて退屈していたので2年から近くの大学の助手がバイトで何コマか授業をしに来てくれるようになったが、あの時にはそのれが難しすぎた。映像も団体で東大の研究者の講義をしてもらえた。ただ、その講義の終わりにぼーっとしていて次の講義のパンフレットが皆我先にと取ってしまって「あー、なくなっちゃったね」というのを契機に少しばかり談話をしてもらえたな。

 俺は引きこもる前段階で、自分の住む大和郡山市を大学みたいに出来ないかということを考えていたことがあるが、小学校が多いという地理的要因で静かな場所が少なく、書店に置かれるのは高校の学参までで、大学の本を書店が扱うと背伸びしてそれを取ってしまう子供がいるので、小中高と大学は生活圏を分けているものだということを最近になって気付いた。

 自宅の周りを大学にしてしまうと思った時には小学校が大学の本を取っても何も問題は無く、生活圏を分けた大学が意地悪いだけだと思っていた。しかし、漢字の読みや計算も出来ないで難しい本を盗み取るように書店で求め、かなり残念な学力なのだが口を突く言葉だけはいっちょまえ、という子供たちが出来て、ある日お使いを頼まれて大正漢方胃腸薬(たいしょうかんぽういちょうやく)と武田漢方胃腸薬(たけだかんぽういちょうやく)の読み取りが出来ないことから漢字が読めていないのに難しい本を眺めてカタカナ言葉だけを拾い読みして脅していた、ということが発覚して、受験の意味もあらためて考えさせられた。

 そうすると、こうして毎日の話をブログにして誰かが読まないかと思っている俺の生活も、何かこう思いがけないボタンの掛け違いというか読み切れない運命のもつれを引き起こしている可能性はあるよな。

 このへん、学園都市つくばとかはどういう事情になっているのだろうな。都市の実験が始まったすぐには生活圏と学園はあるが娯楽施設とかが無く自殺者が増えたと聞いている。繁華街とかラーメン屋は大学とは縁遠いものなのかもだが、そういう賑わいが人のふさぎ込んだ気を紛らわし、生きる活力足り得るのかもしれないなと思う。


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