自分を本物だと信じて生きてきた

もっと簡単にいうと「テレビに出たい」「芸能人になりたい」「アイドルと結婚したい」くらいの事かも知れないが、俺は俺が本物だと信じて生きてきた。

俺には名前があるし顔も体もある。だが、テレビというのは映像に過ぎない。テレビに出たのはゲーム友達で住職の息子がいて、お正月にお参りに行くとテレビの取材がやってきて、今年の意気込みをインタビューされて後に「ね、テレビでれたでしょ」とこう来られた。

他には、歌が好きで歌を歌っていると近所のおもちゃ屋の兄ちゃんが古くて、ちょっと古い芸能人で顔が似ていると奴が思っている名前を挙げる。「真似事だ」とでも言いたげだ。それでも俺の夢はシンガーソングライターというのを胸に秘めていた。

ただ、世の中のレコードのジャケット写真とか、漫画の主人公がお金を持っている俺が喜んで払うようにと擦り寄るように俺に似せてきていると感じたこともある。まあ俺は既製品の服を着て散髪屋で髪を切っていたのだから、どこにでも同じ服で同じ髪型の人間がいてもおかしくはないし、芸能人として売れるということが追随者を増やすこととほぼ同義になる。

自分がなりたいと思う髪型と散髪屋の仕事にギャップがあり、注文をつけると「文句を言うのか」と面倒がられ、ついに髪は鏡を見ながら自分で切るようになった。

そうしてみても、芸能人のヘアメイクさんが真似たのか、自分と同じ髪型の人間は相変わらずテレビに出てきて「どこかの美容室でああいう風に切ってもらったんだ」という誤解も受ける。

とかく、出過ぎた真似として傲慢な俺に「自分が特別だと思わないように」と圧力がかかる。どこの誰とも知らない人間が社会の歯車となっ働く。そういう価値観に押し込められそうになる。

ふと振り返ると、B'zにMr.ChildrenGLAYが共演している姿が毎日使っているMacBookProに映って、懐かしさを感じる。漫画だってマジックザギャザリングが遊戯王と一緒くたにされて大嫌いだったけど読むと面白かった。

なっちまえばいいというか、妄想するならテレビや漫画の登場人物に自分をなぞらえてその世界の中で楽しんで消費者として生きる方が楽かもしれない。

ただ、楽をして寝転んでいても煮え切らないものにけじめをつけるためだけに技芸を磨くのではなかろうか。容姿を変えるのではなかろうか。

自分を特別だと思えるのと、創作物の主人公になりきれるの、どちらが正常だろうか。少なくとも俺は精神科で異常の烙印を押されている。その中でネットに逃げ込み、俺の文筆に対して共感や同調を示してくれる人の存在が、まだ出会ってなくて写真や活字だけかもだけど、味方がいるという気持ちにはなれる。テレビにも変わった人が出てくるようになったと思う。

反対に特殊な技芸のない普通の人にクローズアップした番組も増えたとも思う。

このブログだって本名を隠して書いていた間は周囲の人間が俺だと知らずにいたし、知っていたとしても「小難しいこと言ってもゲーム雑誌から書き写しているだけでしょ」という批判も受けた、それは俺からすると「ゲーム雑誌も俺のブログもどっちも読んでないだろっ!」て感じだったけど、事がYouTubeになってから自宅を探して外から大声で何か叫んだり、隣の空き地で花見みたいな酒盛りしてゴミが散らかされたりもした。

それでも続けると、ついに「あのギター弾いてる動画の人、あの人だよね」と見てくれる人が出てくる中で「そこまでやらなくても今までの芸能人全部あんたに似せられてるやん」という意見の方が理解されているという印象に変わる。

つまり、俺と関係のないほぼ全ての人からは「テレビに出る人の顔がちょっと変わった、整形か?」くらいの意味しか既に持っていないのだと思う。

近頃はテレビに出たいとか芸能人になりたいとかは思わない。YouTubeのアクセスが減ったなぁとか、もっとギターの早弾きのフレーズをカッコ良くしたいとかは思う。

俺には親がつけてくれた名前とそれが役所に届けられた戸籍もあるけど、人生の何割かはゲーマーとしての名前で生きた。そして音楽家としての成功のためには、技術や知識も今以上を求めるが、分かりやすい名前というのも必要かもしれないと思い始めている。


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