作っても意味のない世界

 昨日「盗作を訴えたい場合」とAIに問うと「きわめて難しい」と来た。

 ひと晩明けて、自分の過去の自論が丸パクリされているニュース記事を読んだ。その後、昼食の時間となったのでスーパーに弁当を買いに行った。

 弁当や菓子などの入ったポリ袋を提げてひとりで歩いていると、自分の前を当該のパクリ記事で主役になっていた男とよく似た風貌の男が女を連れて俺の行き先をふさぐように進路妨害しながらゆっくり歩いていた。

 多少不自然に見えるかもだが、歩行速度を上げて追い抜いて見えないようにした。

 いつもより値段が上の良い弁当にしたのだが、メシの味がしなかった。

 だが、上記の理由で風貌の似た男女の組に絡んでしまうと警察に説明しても意味不明と認識され、こちらが悪いことになってしまうだろう。だが振り返ると、自分が誰かの目の前でテレビやネットのニュースでよく似た風貌で嫉妬を買われ、わけなく道端で絡まれたり、通り魔的なことに遭遇してきた可能性だってある。

 まあ、ブログもずっとやっていると文章も上手く書けるようにはなるのだが、上手く書けるようになってくるとAIも進歩して自信が将棋AI開発者を名乗っている以上は言語系生成AIが書いた文章とAIつながりで錯誤されるという実害とも言えぬ風評被害も被っている。

 もしかすると冒頭に上げたパクリ記事の原文もAIがクローリングした俺のブログかも知れず、言語系ではなく画像系AIで絵描きさんが同様の被害になんともいえない境遇に追い込まれていることなども思う。将棋にしても、俺は探索と評価によるAIを作っているが、学習系AIの成長期には実録されたプロ棋士の対局棋譜が使われてきたわけで、現在ではそうでないにしても仕事をしている人をAIが踏み台にしてきたのも事実。

 このことは「学ぶ」ということの本質を突いていると思う。俺は将棋AIは最初はとてもヘボいものだったが、専門学校時代から10年ほど考え抜いてたどり着いた自作のものであった。だがそれを東京大学の教授に見てもらうと「モンテカルロ法ですね」と一蹴された。悔しがる俺に「せっかく来たのだから学んで帰られたらどうですか」という言葉を飲んで、俺は木探索とアルファベータ法について学んで帰った。

 それから、自作の将棋を組みなおすと、大学の方からアルファベータ法についての広報があり、俺は大学から研究成果を盗んだという噂を耳にした。実害があったわけではないし、風評を気にしすぎているとは思う。

 それから強くなったソフトで電気通信大学主催の電竜戦の参加資格を得た。

 得たものを失ったものを比較して、それらは単純に大小で測ることのできない人生観のようなものであり、実利で言うと仕事は辞めたが所得は増えた。だが仕事を我慢して続けていれば収入はもっと多かったかもしれないし、逃した魚が大きく見えているだけなのか、仕事に嫌気がさしていたのに大学に対する疎ましさがあったのも事実。

 タイトルにした「作っても意味のない世界」まで持っていくのに書きすぎてしまったが、ネットに投稿する世界が著作権で守られない以上「書いただけ取られる世界」である。しかし、それが紙に書いたらモノを作ったら大丈夫かというと世に無名の漫画家が無数にいるように、編集にカネで買われてもらったカネを飯を食うのに使ったら何もなくなる世界観があるのだろう。

 ではそれなら可処分所得が多く貯金が増えていく世界ならどうか、というとモノを作っても他のカネを余した人に作ったものが買われて自分の貯蓄が少し増え、通帳の残高以外に作る喜びを感じられない世界線があるような気がしてならない。


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