暴露本で描く真実は二重否定であるということ

 難しいと思うんですよ。

 何かにつけ本当のことを書いてやろうとして、例えばジャイアント馬場のプロレスが八百長だったとか書こうとすると読むまでもなく「当たり前だろ」と思う人がいる。

 けど、何も知らない子供にまずジャイアント馬場とは何なのかと教えようとするとプロレスを見せないといけないわけで、そうするとプロレスの迫力に先に飲まれる子供が一定数いるわけです。それは別にプロレスではなくカンフー映画ゴジラウルトラマンでもそうなんですけど、それが特撮映像でプロレスは八百長だと思う頃には心の中は最初に描いたヒーロー像が残っていて、つまるところそれが欺瞞であるなんて言うのは論理としては二重否定で「あるわけないを映像化した」という意味ではウソ映像の方が労力がかかっていて、夢のあるものなんですよね。

 この仕組みは実は政治や戦争や経済も似たようなもので、戦後にばらまかれた紙幣といううのはなんの詫び石にもならない紙切れであったという言論もあるところでは事実なんだろうけど、子供が大人の財布からお金を出すところを見て、あれが束のようにいっぱいあったらお店で何だって好きなように買えるというのを都会の子は想像して育つわけです。それを札束なんて紙切れに過ぎないと論ずるのもタダの紙を価値あるものと見せている市場や経済に対する二重否定の論理であって、意味があるように夢を見せている政治家や商店の人の方が仕事をしているわけですよ。

 そうすると俺が20代に勤めたコンピュータ関係も、そこから30代で経験した工場などの仕事も、内情を知ると外から建て構えを見るのとは随分違うなと思うけれども、二重否定の暴露本を書く前に、まず世間からITや工場は何に見えているかということが実相としてあるべきで、それを書き上げたら「その実」なんて二重否定でちゃぶ台をひっくり返さずとも十分にコンピュータや家電に機器類に自動車などが売れて、それは欺瞞ではなく作動する「モノ」であって、それがまさに日本経済を形作るわけです。

 もう、十分書いたんじゃないかと思うので本稿はこれ以上の論理は展開しません。


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