受け身の確率論とでも言おうかランダマイズへの従順性を持つゲーマー

遊び慣れているがゆえの負けへの恐怖心の無さ、ゲームが好きな人間がギャンブルに弱い根本原因としてランダマイズに対する懐疑心とか抵抗感を持たず従順に受け入れる素地があるよな。

競技への公平性としてルールとして裏返して良く繰ることの意味はゲームに偶発性を持たせるために必要不可欠で、それによって自分が負けることもまた公平性の一端として受け入れる。

楽しいゲームを親しいものと遊ぶ中でルールを受け入れているがゆえに社会での遊技場に対しても遊びの対価を払うべきみたいな価値観を持っているのかも知れんが、賭け事でなく遊びのゲームでも勝敗が付くと人間関係の序列に響くのが怖くて参加できない用心深く臆病な性格の人も俺は見てきた。やらなければ負けることはない、どうせ負けると思っているが、ゲームの参加は義務ではないので分かるまで問答で人と渡り合おうとするような人もいる。

ある意味で差別的に楽しむことを知らない人という風にゲームへの参加に臆病で多分やったらこちらが勝てるという人を軽蔑してきたが、盛り上げるために負け役を取れるというのもそのコミュニティの参加者に経済基盤があって、遊んでいる余裕があるからだが、まああんまり余裕をかました人生設計だとどんつきになることもあって、どんつきまで来てみるとゲームなどしている余裕は果たしてあったのか、その遊びの土台となる生活基盤から見直すことになる。

まあ、正義というのは剣とともにある概念で、騎士や侍が悪を定めて裁くためにあるのだ。それと善というのは少し違って、上善如水とは良く言ったもので、正義のためにゴミ処理場で働くという人は居ないかもだが、ゴミ処理場の人間は多分公務員で、そこで働いている人は善だと思うんだ。

そういう意味でゲームに正義はあってもその複雑な手続きは善とは程遠く、どこか貴族的な余暇の過ごし方だとは思う。それがトランプくらいまで普遍性を持つと大衆の遊び足り得るのだが、将棋に麻雀というと賭博に使われることもあるし、それ相応に余暇がないと嗜めない。

こと偶然性のないゲームである将棋にはほとほと疲れ切って遊べない状態になっている。

麻雀はたまにゲーム機で遊ぶが、手順がルーティン化した運試しというような様相だ。

そして、ここ数日考え続けたマジックザギャザリングについても楽しむための偶発性を生む仕組みに満ちていて、それを総括的とか支配的に制御しようと試みるのは何らかの矛盾を感じる。

最初から当たり前なのだが、誰でもたまには勝てるようにするために偶然性を取り込むのだ。そういう意味で確率という数学の体系は前提としてランダマイズを受け入れ、不確かなものに如何に抗うかという思考の体系なのだよな。これの自習がやたら面白いという話なのだ。

まあ、不確かさを前提として受け入れている以上は非科学なのだが、それが数学的な体系を持っているがゆえに最近では科学者が科学的に真偽を割り切れない時の上手い言い訳のように確率や統計を用いているのが、本音では少し疑問を持っている。

おおよそ、そんなものは取り合わないというゲームをしない人のものの考え方のほうが古くからの学問の恩恵を受ける賢い考え方なのかも知れないなと今あらためて考えている。

瓢箪から駒という言葉があるように、その全く役に立たない確率統計の考え方から派生した学問が何かの役に立っていることもあろうかとは思うけど、先に書いたように科学の確からしさが危ぶまれた時に真偽がブレるのは確率によるものという持って行き方は詭弁に感じる。

今日はゲームをせずにエクセル表と格闘してから、繰ったデッキを表に返してランダマイズとは如何なるものかずっと考えてみた。不確からしさに対する詭弁としてパーセンテージで語っては本質には近付くことが無いのだろうというのが今日の結論だ。


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